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 ――一年前に、妻を病気で亡くしました。  (しの)(おか)ひばりの死が自殺であるとわかり、胸を痛めていたあの日のマスターの告白は、そんな一言から始まった。星乃の推測どおり、やはり彼も『当事者』だったのだ。 「彼女と出会ったのは大学時代でした。ミステリ研究会の先輩で、好きな作家が何人もかぶっていたことですぐに意気投合しました」  なかなかかわいい人でしょう、とマスターは壁の飾り棚に立てかけられた写真立て、ウェディングドレス姿の亡き妻を振り返った。星乃が素直に「はい、うらやましいです」と言うと、マスターは満足げに微笑んだ。 「なんとなく流れで付き合い始めて、私のほうが彼女にどっぷりハマっていった感じでした。彼女のからだに異変が起きたのは、彼女が大学四年生になったばかりの春でした」  悪性リンパ腫が見つかったのだという。血液のがんで、入院治療を余儀なくされたそうだ。 「早期発見だったわけではなく、発覚した時点であとどのくらい生きられるかわからない、という状況でした。お恥ずかしい限りなのですが、それを聞いて一番うろたえたのは私でした。毎日不安で、彼女の病室に足を運んでは泣いてしまって、本当に情けない男だったんです。彼女のほうが『大丈夫だから』と言って私を励ましてくれるような体たらくぶりで、あきれるような失態をくり返す毎日でした」  星乃はなんと言っていいのかわからず、けれど、マスターの気持ちは少しわかるような気がした。決して失いたくない大切な人の命の灯火が目の前で消えかかっていたら、どうしようもなく不安になるに決まっている。  だが、マスターもこのままではいけないと思ったそうだ。彼の話は明るい方向へと進み始める。 「私は当時大学三年生でしたが、彼女のためにしてあげられることはなんだろう、と考えられるようになってから、少しだけ前を向けるようになりました。あれこれ思い巡らせた結果、彼女の願いをできる限り叶えてあげるのが一番いいのかなという結論に達しました。尋ねてみると、彼女の夢は三つありました。一つめは、ミステリ作家になること。二つめは、カフェを開くこと。そして三つめは、私と結婚することでした」  おぉ、と星乃は表情を明るくして声を上げた。  素敵な話だ。彼女のいだいた夢のうち、少なくとも二つは実現している。 「三つめの『結婚する』という夢を聞かされたことは、実質、彼女からのプロポーズでした。私としても異論はなく、二人とも学生でしたが、翌日には書類を揃えて籍を入れました。貧乏学生だった私でもどうにか手が出る金額の指輪しか用意してあげられませんでしたが、それでも彼女は喜んでくれて、苦しい治療もがんばれると言って、一時は外出が認められるまでに回復したんです。その機を逃すまいと、ウェディングドレス姿で記念写真を撮りました。式を挙げる余裕はありませんでしたけれど、いい思い出になりました」  二人が白い晴れ姿に身を包んで笑い合う姿は、星乃にも容易に想像できた。ほんの数時間の撮影だったのだろうが、幸福に満ちあふれた時を過ごしたことは、飾られた写真を見れば一目瞭然だ。 「一つめの『作家になる』という夢は、体力的な問題もあって苦戦したのですが、二つめの『カフェを開く』という夢は、彼女のお祖父さんが彼女に代わって叶えてくれました。お祖父さんはこのあたりの地主で、このビルの所有者でもあったので、知り合いを頼って開店のためのノウハウを学び、店を出す算段をあっという間につけてくれたんです。私が学生のうちはお祖父さんと私で店を切り盛りして、卒業後は私が晴れてオーナーになりました。ついでだからと、お祖父さんはこのビル自体を私たち夫婦に譲ってくれたんです。なので、今の私はカフェ経営者兼ビルの管理責任者でもあります。就活の手間が(はぶ)けた分、妻と過ごせる時間が増えて、お祖父さんの計らいにはすごく助けられました」  途中からなんだかスケールの大きな話になっていったが、お祖父さんとしても、余命幾ばくもない孫のためにできるならなんでもしてやるつもりだったのだろう。すべては丸く収まったというわけだ。 「どのくらい生きられるかわからないと言われた妻でしたが、当初の診断以上に長生きしたと担当の先生からはおっしゃっていただきました。このカフェへ一度でも多く足を運びたい、という想いが心の支えになったようです。元気な時にはここへ来て、私の隣に立ち、お客さまと楽しそうに話していました。妻がコーヒーを淹れることもあったんですよ。なかなか様になっていました」  マスターは、まるでそこに愛しの人が立っているかのように目を細くして微笑む。 「彼女がいると、店の中いっぱいにひまわりが咲いたみたいに店内が明るくなるんです。よく笑う人でした。二十八で逝くなんて、早すぎますよね」  語尾が震え、きれいなアーモンド型をしたマスターの瞳の端にうっすらと涙が浮かんだ。「すいません」と断りを入れて目もとを拭うマスターの姿に、星乃のほうが言葉を失ってしまう。  丸篠の事件の際、夫に先立たれたことで自殺した篠岡ひばりの気持ちがわかると言ったマスターの言葉は、紛れもない本心だったのだと改めて感じた。  最愛の人を失うと、遺された者の心は、あまりの痛みに形を変えてしまうのだ。 「妻が亡くなったのは一年前の四月でしたが、この店の営業を再開できたのは、十二月に入ってようやくのことだったんです。本当に情けないというか、長くは生きられないとわかっていたのに、いざいなくなってしまうとなかなか立ち直れなくて。この店も誰かに譲ってしまおうかと思ったんですが、開業に手を貸してくださったお祖父さんに『孫のためにも続けてやってほしい』と頭を下げられてしまいました。妻のためだと言われたら、なにがなんでも続けるしかありません。妻の願いを叶えると決めた以上、逃げ出すわけにはいきませんよね」  その話しぶりから、今でもマスターはこの店の厨房に立つのが苦痛なのかもしれないと星乃は思った。  ここへ来るたびに愛する人の笑顔が蘇れば、その人がもうこの世にいないことを嫌でも実感してしまう。一年が経った今になっても、マスターにとってはひどくつらいことなのだ。
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