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「ごめんなさい」  星乃は席を立ち、マスターに向かって深々と頭を下げた。 「知らなかったとはいえ、マスターの前で殺人事件の話なんて、配慮が足りませんでした」  大切な人を亡くしてまもない人に、誰それを殺した犯人が捕まえられなくて困っているなんて話をしていいはずがなかった。他人であっても、今のマスターにとっては、誰かの死に触れることは否応なく最愛の人の死を思い出す材料になってしまう。 「そんな、やめてください」  マスターは慌てて厨房から飛び出してくると、星乃に頭を上げさせた。 「私のほうこそ申し訳ありません。お客さまに身の上話をするなんて」 「いいんです。マスターだって、俺たちの話を聞くばっかりじゃつらいでしょ。たまには自分の話をしたほうがいい。俺でよければ、いつでも聞きますから」 「ですが……」 「素敵だと思いました。マスターと奥さんの関係」 「え?」  星乃の言葉に、マスターは虚を突かれたように両眉を跳ね上げた。 「この店、奥さんの夢が詰まった場所じゃないですか。畳んじゃったら、奥さん、きっと悲しみます。マスターが今でも一生懸命この店を守ってくれてること、奥さんは喜んでるんじゃないかな」 「……そうでしょうか」 「そうですよ。大好きな人が自分のために力を尽くしてくれてるってわかったら、どんなことでも嬉しいと感じるものじゃないですか? そりゃあ愛が重すぎるって思う人もいるだろうけど、奥さんはきっとそうじゃない。マスターが今でもこの店を開けて、お客さんと笑顔で向き合っている姿、奥さんは天国からちゃんと見守ってくれていると思います。で、きっと喜んでる。『ありがとう』って言ってくれてます」  マスターの瞳が揺れた。目尻にうっすらと涙が浮かぶ。  どうにか背中を押してあげられるように、星乃は精いっぱい言葉を選び、微笑みとともにマスターへ贈った。 「天国は遠い。俺たちじゃ手の届かない、すごく遠いところにあります。そんな場所にいる奥さんのところまでマスターの気持ちを届けなくちゃいけないんだから、少し迷惑なくらい、やりすぎなくらいでいいんですよ。たくさんやってあげてください、奥さんのためにできること。『大げさだよ』って奥さんに天国で苦笑いさせるくらいが、きっとちょうどいいんです」  離れていても、愛する人のためにしてやれることはある。  今でも二人で同じ道を歩み、同じ場所を目指し続けているのだと強く信じることができたなら、最愛の人の魂は、マスターの心の中で永遠に息づいていてくれるはずだ。  励ますつもりが、わかったような口を利くなと(ののし)られそうなことを言っていた。刑事という職業柄、遺族の心のケアには慣れているはずなのに、なぜか今はひどく失敗したような気がしている。仕事の時でも、遺族を怒らせてしまうことが時々あった。  反省する頃には話に一段落がついていた。マスターは驚いたような顔をして、語り終えた星乃をしばらく見つめ、やがて静かに「はい」と言って微笑んだ。 「ありがとうございます。私ごときにできることはあまりないような気もしますが、妻が見守ってくれているなら、がんばるしかないですね」 「すいません。俺、余計なことを言っちゃいました」 「とんでもないです。私は幼い頃からどうにもふがいない男でして、こうして誰かに発破をかけてもらわないとなかなか行動できないんですよ。とてもありがたいお言葉を頂戴しました。しっかり背中を押していただきました」  ありがとうございます、と今度はマスターが星乃に深々と頭を下げた。「それなら、いいんですけど」と星乃は控えめにこたえて、その日は店をあとにした。
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