116人が本棚に入れています
本棚に追加
3.
閉店間際になっても、平日の店内は近隣の大学にかよう女子たちで賑わっていた。
テーブル席はすべて埋まり、カウンター席ではなにかの打ち合わせをしているらしいサラリーマンが二人並んで座っている。
星乃はサラリーマンたちから席一つ分距離を取り、マスターお手製のイチジクタルトをほおばっていた。とろとろに熟したイチジクは、口の中に入れた瞬間とろりと溶け、サクサクのタルト生地と混ざり合うと絶妙な食感になる。「うま……!」と我知らずつぶやきながら無心で食べ続ける星乃の気づかぬところで、マスターはひっそりと星乃に微笑みかけていた。
午後五時を十五分ほど過ぎた頃、ようやく店内が星乃とマスターの二人きりになった。なんと切り出すべきか迷っていると、マスターのほうから「お久しぶりですね」と声をかけてくれた。
「毎日お忙しいですか?」
「えぇ、まぁ」
「では、今もなにかの事件の捜査中でいらっしゃる?」
星乃は観念して両手を挙げた。やはりこの人にはなにもかもお見通しだ。
だからといって、マスターのかかえる痛みを知った今、気軽に相談することはできない。そもそも、捜査上の秘密を一般市民にベラベラとしゃべること自体よろしくないのだ。
マスターの冴えた推理に期待してしまうのは、イチジクタルトにつられた時と同じである。いい加減、断る勇気を持たなくてはならない。
覚悟を決めかけた星乃だったが、マスターに先を越された。「どの事件だろう」とマスターは顎に手をやり、すっかり事件の話をする体勢に入っている。
「最近報道された大きな事件ですと、刈谷のラブホテルの事件でしょうか」
さすが、憎らしいほど勘が鋭い。星乃は条件反射的に「そうなんです」と答えていた。
「報道を見る限りですけれど、ホテルの部屋には被害者の他にもう一人いらっしゃったとか。しかし、まだ逮捕には至っていないようですね」
マスターが巧みな話術で誘導してくるが、星乃は首を横に振った。
「つらいですよね、こんな話」
「はい?」
マスターがキョトンとした顔をする。「だって」と星乃は視線を下げた。
「奥さんを亡くされたばかりなのに、人が死んだ話なんて、つらいじゃないですか」
それも、ただ死んだだけではない。殺人事件だ。気持ちのいい話題ではないし、事件の真相はたいてい、憎悪や欲望、人間の汚い部分が浮き彫りになって、目を覆いたくなるほど醜い。
だというのに、マスターはケロッとした顔をして「いいえ」と言った。
「確かに、私は妻を亡くしました。ですが、それはそれです。お客さまのお話には、どんなことでも耳を傾ける覚悟はできています」
「でも、最近は大好きな推理小説も読めていないっておっしゃってたじゃないですか。奥さんのことを思い出してつらいからでしょ」
マスターはやっぱりあっけらかんとして、「それがですね」と表情を自然に明るくした。
「また読み始めたんです。先日、お客さまに背中を押してもらえたおかげで、楽しめるようになりました」
「あぁ、あの時……」
マスターから最愛の人を失ったと聞かされた時だ。たいした励ましもできなかったどころか、わかったような口を叩いてしまったとすっかり落ち込んでいたのだが、意外にも星乃の言葉はマスターの胸に大きく響いていたらしい。
「一年ぶりに紙の本をめくったのですが、やはりいいですね、本は。最近読んだ中ですと、新川帆立先生の『元彼の遺言状』が特におもしろかったです。一風変わった二通の遺言状をめぐるミステリなのですが、主人公のキャラクターが強烈で、ミステリとしても細部にまでこだわった非常に完成度の高い作品でした。あと、東川篤哉先生の『謎解きはディナーのあとで』シリーズの最新作も刊行されて……」
久しぶりの読書がよほど楽しかったのだろう。マスターは訊いてもいないのに最近読んだ小説について饒舌に語った。星乃は時折相づちを打ちながら、声を弾ませるマスターの姿に微笑ましい気持ちになった。
最愛の人を失い、止まってしまっていたマスターの時間が、星乃のささやかな励ましをきっかけに動き始めた。彼がまた一歩前に踏み出す手助けができたのなら、それ以上に喜ばしいことはない。
これで少しは、恩返しができたかな――。
ベストスリーの解説を終えて満足げなマスターに、星乃は「俺も時間を見つけて読みます」と笑顔で応じた。心から好きと思えるものがあって、それを素直に「好き」と言えるマスターのことが、少しうらやましく思えた。
最初のコメントを投稿しよう!