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「それで、なんのお話でしたか」  散々遠回りをして、マスターはようやく現実の殺人事件についての話題に戻った。 「そうそう、刈谷のラブホテルの事件でしたね」 「はい。現場はラブホテルの一室。夜中のうちにナイフで喉を刺されて死んだ男と、チェックイン前から翌朝まで意識を失っていたと主張する女が、中からも外からも鍵の開かないホテルの部屋の中で一緒にいたんです」  ほう、とマスターの瞳が輝いた。 「遺体と生存者が、同時に密室の中に……。フィクションの世界でもたまに見かける状況ですね。市川憂人(いちかわゆうと)先生の『ブルーローズは(ねむ)らない』なんかは、まさに」 「密室の中に、遺体と生存者が?」 「えぇ。舞台はラブホテルではなく、バラの(つた)で覆い尽くされ、出入り不能な状態だった温室。遺体のほうは、切断された首だけが温室内に残されていました」  なるほど、いかにもミステリらしい不可解な舞台設定だ。ホテルの部屋に生首が転がっていなくてよかったと星乃は心底安堵した。胴体を探し出すために(つい)やされる時間と労力は計り知れず、頭で少し考えるだけでどっと疲れる。 「一緒にいた生存者の女性は、犯人ではないのですね」  マスターはせっせと皿やカップを洗いながら言う。 「そうでなければ、お客さまはお悩みにならないわけですから」 「犯人ではないと明言はできないんですけど、逮捕には踏みきれないというか……。彼女は犯人ではないという証拠も、彼女が犯人だと確信を持てるだけの物的証拠もなくて。なにより、本人が(がん)として犯行を認めないんです。ヘタな言い訳をするでもなく、とにかく私はやってない、ホテルへ連れ込まれたことも記憶にないと言い張っていて」 「なるほど。現場は出入り不能なラブホテルの部屋だったわけですから、どう言い訳をしても疑われることは避けられないと開き直っている、ともとれますが」  星乃は静かに首を振る。 「彼女の取調べを最初に担当したのは俺ですけど、なんていうか、うそをついているようには見えなかったんですよね。俺の質問にもなるべく細かく正確に答えようとしていたし、わからないことははっきりわからないって言うところが(いさぎよ)くて、証言をごまかそうとする様子はまったく感じられませんでした」 「そうですか。だとすると、おかしな話になりますね。被疑者の女性の証言どおり、事件当時の記憶がなく、目を覚ましたらラブホテルの一室にいたというのが本当ならば、彼女をホテルの部屋へ運び込んだのは被害者で、彼女の知らないうちに喉を刺されて死んでしまった、ということになります」 「そうなんですよ。事件当日のホテルのフロント係の話だと、その日は三人以上で宿泊した客はおらず、顔を直接見たわけではないものの、フロントの前を通る人影は全組が男女二人のカップルだった、とのことでした」  マスターは一人で納得しているようで、大きくうなずいてから口を開いた。 「唯一の抜け穴はそこでしょうね。ラブホテルという場所の性質上、客とホテルの従業員が顔を合わせることは基本的にない。その点をうまく利用すれば、被害者の男性と被疑者の女性、そして犯人の三人が、同じ部屋に同時に入室することができそうです」 「できるんですか?」  マスターはこの上なく美しく微笑み、「考えてみましょう」と言った。毎度変わらない受け答えだ。  わかっていても、自分の口では決して答えを言わない。ヒントは出すが、本筋は星乃に考えさせ、星乃が自力で答えにたどり着けるよう誘導する。それがこの人のやり方なのだ。三度目ともなれば、直接答えを聞こうとした自分がバカだったと納得できる。
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