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せっかくの犯罪計画が、最後の最後で詰んでしまいそうになっている。しかしマスターには全貌が見通せているようで、なにもかもを受け入れてくれる教会の神父のような笑みを浮かべ、迷える星乃に救いの手を差し伸べてくれた。
「第一発見者の女性を入れて運んだバッグの中に身を隠していたのではないでしょうか。おそらくは、ドアのすぐ脇で」
「そうか、なるほどね。旅行カバンなら、ドアのそばに置かれていてもホテルの従業員は素通りする可能性が高いですもんね。まさかその中に人が隠れているとは考えないだろうから」
「えぇ。第一発見者の女性も同じことです。ただでさえ遺体を見つけて気が動転している状態ですから、ドアの近くに大きな荷物が置かれていても、自分のものでなければ被害者が持ち込んだものだと考えるのが普通でしょう」
「ですね。ドアの脇に身をひそめていたのは、ホテルの従業員がマスターキーでドアロックを解除し、室内に入った瞬間を脱出のタイミングに選んだから、ですか?」
「おそらく。ドアと壁の隙間になにかを噛ませてドアが完全に閉まらないようにすれば、二人がメインルームで遺体を確認している隙にこっそり逃げ出すことができます。そのためにも、ボストンバッグの利用は必須でした。スーツケースでは自力で開けることが難しそうですし、メインルームを通過することになる場所、たとえば風呂場などに隠れていては、脱出は不可能だったでしょう」
そうして室内から悠然と抜け出した真犯人は、被害者以外の誰とも顔を合わせないままホテルを去る。現場に残された津下実久里は、殺人容疑で警察に連行される。
見事な犯罪計画だ。犯人の思惑どおり、津下が逮捕・送検されれば完全犯罪になるところだった。
「ありがとうございます」
星乃はもう何度目かの礼をマスターに述べた。
「またマスターに助けていただいちゃいました」
「そんな、滅相もない。私はただ、仮説の一つをご提示したまでです。今の推理が真実とは限りませんし、そのあたりの詳細な検証は警察にお任せすることになりますので」
「もちろんです。あとはこちらで」
密室が破られた。すなわち、津下実久里以外の犯行である可能性が出てきた。
ここから先は警察の領分だ。地取り、鑑取りの両捜査を再度徹底的におこない、容疑者を絞り込む。
津下と茅野は初対面だったかもしれない。しかし、両者をつなぐ人物が意外なところにいる可能性はある。
腕時計に目を落とすと、午後五時三十分を大きく回っていた。六時までに署へ戻るよう言われていたが、間に合うだろうか。
「すいません。すっかり長居してしまって」
「とんでもないです。お客さまとこうしてお話ができる時間は、私にとっても有意義ですから」
「本当ですか」
「えぇ、もちろん。小説の中で起きる事件に触れることはできても、実際に起きた事件にかかわれる機会は滅多にありませんからね。野次馬根性丸出しで恐縮ですが、いつもわくわくさせていただいています」
この回答には苦笑いするしかなかった。確かに、星乃がこの店に来て事件の話をするたびに、マスターは子どものように瞳をキラキラと輝かせる。
いいことだ。どんなきっかけだろうと、彼の心が晴れることは星乃の望みでもある。
彼が心から星乃との時間を楽しんでくれているなら、いわゆる『Win-Win』の関係と言っていいのかもしれない。使い勝手のいい情報屋をかかえる刑事だっているのだから、名探偵をこっそり仲間に加えたって罰は当たらないだろう。
被害者のために、一刻も早く事件を解決するのが刑事の務めだ。そのためには手段を――違法でない限り――選ばない。それくらいの覚悟でいて当然なのだ。
自分に都合よく言い訳をしながら会計を済ませ、「また来ます」と言い残して店を出た。
日の長い六月の空が、ようやく茜色に染まり始めた。
一歩足を踏み出した星乃は、すぐに立ち止まり、ゆっくりと店の外観を振り返る。
『珈琲茶房4869』。
名探偵の営む店、なんていうキャッチコピーを思いついた。提案しても、腰の低いあのマスターなら即却下しそうだ。
だが、どうだろう。
彼の最愛の人が存命だったら、喜んで採用してくれるのではないだろうか。彼が事件の裏でひそやかに活躍する姿を、笑顔で応援してくれるに違いない。
暮れなずむ空を見上げ、星乃は静かに目を閉じる。
遠く離れた、マスターの最愛の人を想う。
――マスターがあなたのためにがんばるように、俺もマスターのためにがんばります。この店をたった一人で守り続けるマスターが、これからも笑顔で過ごせるように。
まぶたを上げ、夕陽を背にして歩き出す。
事件はまだ終わっていない。ここからが本番だ。
小走りになりながら、スマートフォンを手早く操作し、班長と連絡を取る。
相手が電話に出た瞬間、星乃は言った。
「班長、やっぱり津下実久里は犯人じゃないと思います」
【三作目『ブルーローズは眠らない/市川憂人』 了】
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