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「一週間前?」  マスターの表情がいよいよ険しくなってくる。 「では、ご遺体はかなり腐敗が進んでいた?」 「いえ、それがそういうわけでもなくて」  マスターは大きく首を捻った。そりゃそうだ。星乃も現場に足を踏み入れた時、猛烈な違和感を覚えてならなかった。その違和感の正体がいまだにはっきりとせず、もう何時間もモヤモヤしたまま捜査に当たっているという状況である。  そんなことを考えているうちに、ハッとした。マスターとの問答があまりにも自然だったせいで、余計なことをしゃべってしまいそうになっていた。 「あ、あの……」 「そうか、冬ですもんね」  星乃が言い(つくろ)うよりも先に、落ちつきのあるテノールボイスでマスターはつぶやいた。 「夏なら腐敗の進行も早いでしょうが、ここ数日は特に寒かった。……いや、それにしたって、一週間前に殺されたご遺体なら、ある程度腐敗していなければ辻褄が合いませんよね」  星乃は目を丸くした。ここでのやりとりは、まるで刑事部の先輩たちとの会話そのものだ。  胸の奥がざわついている。何者なのだ、この喫茶店経営者は。推理小説に詳しいというだけで、こんなにもなめらかに事件についての会話が成立するものだろうか。 「申し訳ありません」  しゃべりすぎたと思ったのか、マスターは頭を下げた。 「出すぎたことを申しました」 「いえ、とんでもない。すごくお詳しいので驚きました」  マスターは「恐縮です」と曖昧な笑みを浮かべたきり、口を閉ざしてしまった。食器を洗い終え、流していた水を止めた彼の表情を窺うと、うまく言葉にできないが、後悔しているような、なにかに苦しんでいるような、そんな顔をしていた。  会話を自ら中断したマスターを気づかい、星乃は言う。 「別に迷惑とか思ってないです。むしろ、マスターと話していると頭の中が整理できてありがたいというか」  本音だった。一人であれこれ悩んでいるより、誰かと言葉を交わしていたほうが、心が健康でいられる気がした。  マスターは少しホッとしたようで、「それならば、よかったです」と言った。  ぬるくなり始めたコーヒーを一口すすって、星乃は先ほどまでの会話を再開させた。 「おかしな事件なんですよ、本当に。事件発生が一週間前っていうのはほぼ間違いないんですが、被害者が亡くなったのは、三日前……十五日の土曜日じゃないかというのが検死官の見立てで」 「三日前、ですか」  マスターは濡れたマグカップをタオルで丁寧に拭きながら、難しい顔で小さくうなった。 「一般家庭で起きた強盗殺人で、事件発生から被害者が死に至るまでにいくらか時間があき、なおかつ、ご遺体が発見されるまでにも時間があいた。確かに、前例の(とぼ)しそうなケースですね」 「はい。被害者は監禁されていて、助けを呼ぶことができない状況にありました。事件の発覚が遅れたのはそのためです」 「監禁」  星乃の言葉をすくい上げたマスターは、一瞬、瞳をキラリと輝かせた。 「ますますおかしな状況ですね。強盗殺人で、監禁? 耳慣れない組み合わせです。強盗殺人と聞くと、犯人と鉢合わせた被害者が手近にあったもので撲殺される、なんていう状況を真っ先に想像してしまうのですが」  まさにマスターの言うとおり、強盗殺人の被害者が自宅に監禁されるというのは他に類を見ない事例だ。  しかし、事件は実際に発生した。星乃は短く切った黒髪をくしゃくしゃとかき乱し、小さく息を吐き出してから言った。 「被害者の殺害方法は、撲殺でも刺殺でも扼殺(やくさつ)でもありません。犯人の手によって自宅の一角に監禁された被害者は、餓死した状態で見つかったんです」
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