Extra Book

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 新幹線から地下鉄に乗り換え、覚王山という立派な名前の駅へ向かう。名古屋に来た時には必ず食べる、甘くておいしいフレンチトースト。これで腹を満たしてから打ち合わせに臨むのが恒例だった。  午後三時五十分。混み合う地下鉄の中で、上島は全国紙のデジタル版をスマートフォンの画面に表示させる。  愛知県内で最近起きた大きな事件、刈谷市のラブホテル殺人で、被害者とともにホテルの部屋にいた女とは別の女が逮捕されたという記事が掲載されていた。二人の女性は会社の同僚で、被害者とは別の男性とのトラブルが過去にあったという。  他人事のように、物騒だなぁ、と心の中だけでつぶやく。上島は主にミステリ小説を担当する書籍編集者だが、実際に起きた事件に巻き込まれるのは御免だと常日頃から思っている。小説の世界でなら、ミステリ好きの素人が事件を解決する展開は大いに歓迎できるのだけれど。それこそ、『専業主夫の謎解きレシピ』のように。  十五分ほど電車に揺られ、覚王山駅で下車。傘を差し、駅から南へ歩くこと三分。目的の場所へたどり着いた。 『珈琲茶房4869』。  名古屋で一番おいしいフレンチトーストが食べられる喫茶店、と上島は勝手に思っている。知り合いの営む店だからといって贔屓(ひいき)をしているわけじゃない。文句なしでおいしいのだ。酸味のきいたコーヒーとの相性も抜群である。  悪天候のせいか、店内は閑散としていた。二つあるテーブル席は一つが空席、カウンターにも客はいない。  だが、かえって好都合だった。他の客に聞き耳を立てられることなく、堂々と店主に挨拶ができる。 「いらっしゃいませ」  厨房から出てきた店主は、客を上島と認識しながら、特別な言葉をかけてくることはなかった。上島のほうから「大変ご無沙汰しております」と丁重に頭を下げると、店主はほんの少しだけはにかんだ表情を浮かべ、「どうぞ」と上島をカウンター席へ案内した。  フレンチトーストとアイスコーヒーを注文すると、店主に「本当にお好きですねぇ、フレンチトースト」と笑われた。 「だって、おいしいんですもん。花菜(かな)先生だって絶賛されていたじゃないですか、(しゅう)(へい)先生のフレンチトースト」  店主――久里(くり)()周平は困ったような顔で肩をすくめ、「その『先生』というのはやめてくださいといつも言っているじゃないですか」と文句を垂れた。言われるとわかっていて、あえて口にしたのだ。そうやって自覚させてやらないと、この人は自分が『元町周』の名を背負っているのだという事実から恥ずかしがって目を(そむ)けてしまう。  ミステリ作家、元町周。  男とも女ともわからない、顔も明かしていない覆面作家が、実は夫婦二人組で執筆活動をしていることはほとんど知られていない。上島ら光城出版の関係者でも、『元町周が二人組』という事実を知らない者は少なくないのだ。  原案を練り、魅力的なキャラクターを生み出すのは、妻、久里江花菜の担当。トリックや物語の細部を補正しながら文章を綴るのは、夫、久里江周平の担当。花菜の旧姓である『元町』と、周平の『周』の字を取った『元町周』というペンネームを考えたのは花菜だった。  二人は大学時代に同じミス研に所属していたというが、作家を目指していたのは花菜だけで、周平はもっぱら読むばかりだったそうだ。花菜が病に倒れなければ、周平が文壇に上がることはなかっただろう。あれほど巧みな文章を書ける手腕を持ちながら、自分に自信が持てないという周平の内向的な性格は(はなは)だ惜しいと、上島は常々思うのである。  手際よくフレンチトーストを調理している周平に、上島はカウンター越しにひっそりと微笑みかける。  医者から余命宣告を受けた妻のため、六年前、彼は一念発起した。妻の頭の中にある物語を、自らの手で書き起こそうとしたのだ。  花菜が叶えたいと願った夢は三つあり、そのうち二つは実現する見込みが立った。残りの一つが、ミステリ作家になることだった。  あとどのくらい生きられるかわからない妻のために、してやれることはないか。そこで周平は思い立ち、体力的に執筆作業の難しい妻に代わって小説を書き始めた。言うなれば、変則的なゴーストライターだ。  結果的に、彼らの想いは形になった。  花菜はとにかく魅力的な舞台設定とストーリー展開、そしてキャラクター作りがうまく、周平は読者の頭に物語の情景を鮮明に描かせる文章力に優れていた。二人の持つそれぞれの才能が混ざり合い、絶妙な化学反応を引き起こし、五年前、光城出版文芸第三出版部が企画・運営する新人賞で受賞。書籍刊行後まもなく、受賞作『専業主夫の謎解きレシピ』は人気シリーズの仲間入りを果たした。  しかし、シリーズ第四作の編集作業中、花菜が刊行を待たずして無念の逝去。第四作はどうにか出版までこぎ着けたが、物語は完結していない。失意の只中にいた周平は、第五作以降の執筆はしないと上島に宣言し、以来、編集部と彼との連絡は長らく途絶えていた。  それが、である。  まもなく花菜の一周忌というタイミングだった。周平から上島に「シリーズ第五作のプロットを作りました」との連絡が入り、社のデスクで仕事をしていた上島は文字どおり飛び上がった。  椅子の上で小さく跳ね、「ほ、本当ですか!」と声を裏返すと、周平はただ一言、「花菜のためにも、書かなきゃいけないと思って」と言った。  今でもはっきりと覚えている。花菜が存命の時分からどこか後ろ向きだった周平が電話口で発した声は、これまでのどの瞬間よりも前向きな響きに聞こえた。  彼の心に、小さな想いの火が灯ったのだ。
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