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「お待たせいたしました」
厨房から出てきた周平が、できたてのフレンチトーストとアイスコーヒーを運んできた。
「フレンチトーストとアイスコーヒーでございます」
「そうそう、これこれ!」
上島は声を弾ませる。周平の手がける料理はどれも絶品だが、このフレンチトーストは格別だ。
白い湯気の立つトーストの焦げ目の上で、とろけたバターがじゅわりといい音をさせている。こいつにナイフを入れる瞬間がたまらないのだ。サクッ、ふわっ。早く食べたくてウズウズする。
だが、その前に。
上島はそっと席を立ち、周平と改めて正対した。
「お元気そうでなによりです、周平先生。このたびは、本当にありがとうございます」
元町周こと久里江周平・花菜夫妻の作品は、光城出版文芸第三の看板シリーズの一つである。未完のままシリーズに幕を下ろすことにならずに済んだことは、出版部一同、感謝の念しかない。
上島以外の唯一の客、テーブル席の女子大生三人組がチラチラとこちらへ目を向けてくる。周平はわずかに頬を赤らめ、「冷めないうちに召し上がってください」と話を逸らした。
花菜が亡くなった今でも、彼の中では『妻の代わりに作家をやっている』という意識が消えないようで、今後も元町周は『性別不明の覆面作家』ということで通したいのだそうだ。実際、新作のプロットも花菜の遺したネタ帳をもとに組み立てている。書いているのは周平でも、彼曰く、『謎解きレシピ』シリーズは『久里江花菜の作品』なのだ。
再び席に腰を落ちつけ、上島は絶品のフレンチトーストに舌鼓を打った。バターの風味が鼻腔をくすぐり、噛んだ瞬間、甘いたまごの味が口の中いっぱいに広がる。最初はサクッとしているパンの食感は次第にふわふわもちもちへと変わり、喉を通る時には心が幸福で満たされていた。おいしい。おいしすぎる。
半分ほどを一気に平らげたところで、上島は周平に話しかけた。
「でも、本当によかったです。周平先生がまた小説と向き合えるようになって。なにかいいきっかけがあったんですか?」
三月末に電話をもらった時にも同じ質問をしたが、答えははぐらかされていた。こうして無事出版契約に至った今なら、あるいは教えてもらえるかもしれないと思ったのだが、果たして。
周平は調理器具を丁寧に洗浄しながら、少し恥ずかしそうに破顔した。
「ある方に、背中を押していただいたんです」
「ある方?」
「えぇ。この店のお客さまなのですが、その方とお話しているうちに、いつまでも塞ぎ込んでいては妻に申し訳ないなと気づかされて」
その客は言ったそうだ。たとえ遠く離れていても、これからもずっと二人で同じ道を歩み続けるのだと強く信じることができたなら、花菜の魂は周平の心にいつまでも息づいていてくれるはずだと。天国にいる花菜のためにも、できることはなにもかも全部してあげるべきだと。
――これからも、ずっと二人で。
いい表現だ。胸にくるものがあり、上島は無言のままうなずいた。
最愛の人を失い、時計の針が止まってしまった周平のもとに、一年という時間をかけて、いい出会いがようやく巡ってきたようだ。
「花菜先生も、きっとお喜びだと思います」
涙声になりかけたことを必死に隠し、上島は顔を上げた。
「花菜先生の作品がもっともっと多くの人に届くように、わたしも精いっぱいお手伝いさせていただきます」
「よろしくお願いします。私も花菜のためにがんばります。この店も、執筆も」
強い決意を表明しながら、周平ははにかんでいだ。『執筆』という言葉を口にしたせいだろう。
相変わらずだなぁ、と上島は苦笑を漏らす。文壇デビューして四年が経つというのに、この人はいつまで恥ずかしがっているつもりなのか。
この店を午後五時という早い時間に閉めているのも、作家としての時間、執筆のための時間を捻出するためなのだ。だというのに、今さら作家として活動していることを恥じられてもどう反応すればわからない。
――ま、そこが周平先生らしいところなんだけどね。
元町周が文壇デビューしたばかりの頃を思い出す。原案担当者であり、病床にいてなお負けん気の強い性格だった花菜に、デビューが決まってもどこか及び腰だった周平は「しっかりしてよ、周ちゃん」とよく尻を叩かれていた。打ち合わせの場所は主に花菜の病室だったが、二人の明るいやり取りを見ていると、花菜が重い病に苦しんでいることをついつい忘れてしまうのだ。
うらやむほど、仲のいい夫婦だった。神様はどうしてこんなにも残酷なことをするのだろう。二人を引き合わせておいて、十年も経たないうちに離れ離れにしてしまうなんて。
だけど、と上島は目を閉じる。
二人には、本という形でこの世に遺した愛の結晶がある。
元町周のデビュー作『専業主夫の謎解きレシピ』は、真逆の性格をした花菜と周平が惹かれ合い、互いの力を尽くして作り上げた、ミステリながら心あたたまる優しい作品だ。
このシリーズが続く限り、二人の人生は交わり続け、愛は深まり続けていく。そのささやかな手伝いができたら幸せだ。編集者として、また二人の育む愛を間近で見てきた者として、上島はこのシリーズのさらなる発展に全力を注ぐことを自らに誓うのだった。
フレンチトーストの残りに口をつけながら、ふと、周平の背中を押したのはどんな人だったのだろうと思った。
大切なものを失った人に前を向かせること、痛みに苦しむ心に寄り添うことは、想像以上に難しい。言葉選びに慣れている人間でないと、当事者の負った傷をさらに深くしてしまうことだってある。
慣れている人、だったのだろうか。
喪失感に苦しむ心に、日常的に触れている人。そんな人が、この店の客としてやってくる――?
「どんな方なんですか?」
気がつけば、上島は周平に尋ねていた。
「周平先生の背中を押してくださった方というのは」
「どんな方、ですか……。私の口から申し上げることは少し難しいですが、運がよければお越しいただけるかもしれませんね、今日」
「本当ですか」
「えぇ。刈谷の事件の犯人も無事に逮捕できたようですし、いつもこのぐらいの時間にいらっしゃるんですよ。閉店間際を狙って」
刈谷の事件? なんの話だ。
上島が眉をひそめると、入り口のガラス扉が開かれた。
来店したのは、長袖の白いシャツの袖をぐりぐりと捲り上げ、ダークグレーの上着を片手に提げた、背の高いスーツ姿の男だった。
「おやおや。うわさをすれば」
周平が嬉しそうに厨房から出ていく。うわさをすれば? まさか、この人――?
いらっしゃいませ、と周平は男に微笑んだ。上島はそっと立ち上がる。
男と目が合う。周平が上島を振り返る。
動き出した時計の針が、また一つ、新たな時を刻んだ。
【推理茶房4869/了】
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