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「ますますかわいそうだな」
所轄署の捜査員による説明に耳を傾けながら、班長が改めて遺体に目を落とした。
「夫の留守中に空き巣に入られ、助けも呼べず、誰にも気づかれないまま餓死、か」
まだ若いのに、とつぶやいた班長の声には、被害者への同情と、犯人に向けられた怒りが込められていた。刑事は被害者のためにある、というのは多くの先輩たちからの受け売りで、星乃も彼らに倣って座右の銘としている言葉だが、若い命が理不尽に奪われる事件に遭遇するたびに悔しさで胸が苦しくなる。
「金品は根こそぎやられたようですね」
所轄署のベテラン捜査員が、自前のノートを広げながら説明を続ける。
「被害者の財布、スマートフォン、腕時計や宝石類は一切残されていませんでした。結婚指輪も奪われたようです」
捜査員の視線の先には、遺体の左手があった。よく見てみると、うっすらと指輪の跡が刻まれている。
「あの」
星乃が挙手をして所轄署の捜査員に尋ねる。
「遺体は死後二日以上が経過しているんですよね? ということは、事件が発生したのは……?」
「一番早くて、十一日の深夜だな」
所轄署の捜査員が答える前に、班長が腕組みをして口を開いた。
「個人差はあるが、人間は水も食べ物も取らなければ三日から一週間で死に至る。現時点で死後丸二日が経過しているということは、被害者が死亡したのは少なくとも十六日の日曜より前、おそらくは十五日の土曜だろう。そこからさらに三日遡ると、十二日の水曜日。その前日、十一日の火曜日には、矢上実花本人から音楽教室にレッスンの欠席連絡を入れている。――そうでしたよね?」
班長に問われた所轄署のベテラン捜査員は「はい」とうなずき、説明を加えた。
「レッスンは午後十二時半からの予定だったそうで、連絡が来たのはその日の午前八時半頃だったと」
「ずいぶん早かったんだな」
班長のいだいた疑問は、星乃と同じものだった。
「ですね。そんな時間にも教室は開いているものなんですか」
「いえ、それが」
答えた所轄署のベテラン捜査員は、なぜか複雑な表情を浮かべた。
「その日、欠席の連絡を被害者から受けたのは、第一発見者であるクラリネット講師だったそうでして」
「それって」星乃が言う。「教室経由ではなく、講師が被害者から直接連絡を受けたということですか。だから早朝?」
「お察しのとおりです。互いに個人所有のスマートフォンで、メッセージアプリを利用してやりとりをしたと」
星乃と班長の視線が重なる。「ひょっとして」と口を開いたのは班長だ。
「その、第一発見者のクラリネット講師ってのは……?」
ベテラン捜査員はうなずいた。
「問い詰めたら吐きました。第一発見者の弓長淳一は、被害者の不倫相手です」
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