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3.
「餓死、ですか」
カウンター席の星乃と向かい合わせになる形で厨房に立つマスターは、ますます好奇心に駆られたように、星乃の言葉をくり返した。
「強盗殺人の疑いがあり、なおかつ、死因は餓死。やはり、レアケースですね」
「はい。俺、警察官になって四月で丸五年になりますけど、はじめてですよ、餓死の遺体を扱うの」
「そうでしたか。ですが、日本は『飽食の国』と言われながら、年間で数十件は飢餓死とみられるご遺体が上がると聞いたことがあります」
星乃は両眉を跳ね上げた。どこから得た情報だろうか。
関係省庁が発表する統計資料にでも目を通さない限り、一般市民が知り得ることとは思えなかった。かくいう星乃も、変死体を扱う警察に身を置きながら、飢餓死に関する知識はほぼゼロだ。
「よくご存じですね。さすがだ」
素直な感想を口にすると、マスターは「いえ、そんな」と首を振りながら肩をすくめ、ほんのわずかに口角を上げた。
「『飢えた天使』ですね」
耳慣れない言葉を、マスターは嬉しそうに口にした。
唐突に飛び出したその言葉の意味を、星乃はおもいきり取りこぼした。
「はい?」
「すいません。餓死と聞いて、真っ先に思い浮かんだのがそれだったものですから」
「それって、飢えた……?」
「『飢えた天使』」
水気を拭い取った食器を丁寧に重ねながら、マスターはなめらかな口調で語り始めた。
「城平京という、推理小説やマンガ原作を手がける作家さんがいらっしゃるのですけれど、先生が単著『名探偵に薔薇を』で文壇デビューされる以前、アマチュア時代に執筆され、こちらもミステリ作家の鮎川哲也先生が編纂したアンソロジーに掲載された短編小説が『飢えた天使』という作品です。扉にバリケードを施されたトイレで餓死した女性の遺体が見つかり、夫の犯行ではないかと疑われるのですが、当の夫は記憶喪失を主張しており……という内容なのですけれども」
意地悪なことに、マスターはそれ以降、楽しげな笑みを浮かべて口をつぐんでしまった。
彼の策略と知りながら、星乃は我慢できずに尋ねてしまう。
「事件の真相は?」
マスターはしたり顔で答えた。
「ぜひ、ご自身の目でお確かめください。僕の所持している文庫本でよければ、次回ご来店いただいた時にお貸しします」
やっぱり、そうきたか。星乃は参りましたとばかりに笑みをこぼした。
「商売上手だ」
「恐縮です」
二つの朗らかな笑い声が、店内の空気を和ませる。マスターの話術のたまものか、事件の話を挟んでも、客と店員のたわいもない会話というスタイルが決して崩れることはない。
「本当に推理小説がお好きなんですね、マスターは」
ホームズ、ポアロといった世界的に有名なシリーズだけでなく、日本人の作家、それもアマチュア時代に発表した作品まで押さえているとは、よほどのマニアなのだろう。
星乃の発言に他意はなく、純粋な尊敬の気持ちから放った言葉だったのだが、マスターはなぜか表情を変え、かすかに瞳を揺らした。
「えぇ、小学生の頃から愛好しています。最近はあまり読めていないのですけれど」
マスターの顔に浮かんだ苦笑は、無理やり貼りつけているように見えてならなかった。本当は笑えないくらい苦しいけれど、客の前ではどうにか、といった風に。
わずかな表情の変化が気になってしまうのは、警察官になってからの悪い癖だ。仕事の上では勘はよすぎるくらいがいいのだろうが、日常生活を平穏に送るためには、あまり発動させたくないスキルだといつも思う。
マスターの表情の変化は見なかったことにして、星乃は話を続ける。
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