11人が本棚に入れています
本棚に追加
1
幻月のぼんやりとした月明りの深夜、小向賢一郎はほうほうのていで、街を彷徨っていた。
「やっちまった……やっちまった……」と、ぶつぶつ言いながら、酔っぱらいのようにおぼつかない足取りだ。
もし、あなたが小向とすれ違っていたら、かなり不気味だったことでしょう。
小向がふらふらと、神社の前を通り過ぎようとしたとき、境内に人の気配を感じ、ぴたりと足を止めた。境内の方にそろそろと顔を向け、真っ暗闇に目を凝らす。朱い塗装が剥げた鳥居の、両脇に鎮座する狐がこっちを見ているようだ。
昔ばあちゃんが、丑三つ時の神社には絶対に立ち入っちゃいけないと言っていた。夜中の神社は神様が留守のため、魑魅魍魎が集まるからだという。
ぶるっと悪寒がはしり、肩をすくめたとき、境内から黒い物体が飛び出し、咄嗟に目をつむった。心臓がぎゅっと縮みあがる。
飛び出てきたなにかが、自分の方を見ている。閉じた瞼を通して、気配を感じた。
小向はごくんと生唾を飲み、両の瞼を、ゆっくりと上げた。
暗闇に眼を光らせた黒猫が「ニャア」と小さく鳴き、サッと闇夜に消えていった。
「なんだ、おどかすなよ……」と、安堵を吐き出したとき、道端に何か落ちていることに気がついた。ちょうど黒猫がいたあたりだ。
近づいて見ると、一冊の本だった。
腰をかがめ右手で拾い上げる。
単行本サイズの表紙に、こう書いてある。
“幸せになれる本”
いままでの小向なら、こんな自己啓発ふうの本に興味はなかったが、今は違う。あんなことがあった後だ。
小向は本の砂をぱんぱんと払い、右肩に下げたトートバックに突っ込み、その場を後にした。
闇夜に消えていく小向の後ろ姿を、神社の境内の樹の陰から、髪の長い女が、じっと見ていた。
最初のコメントを投稿しよう!