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 幻月(げんげつ)のぼんやりとした月明りの深夜、小向賢一郎(こむかいけんいちろう)はほうほうのていで、街を彷徨(さまよ)っていた。 「やっちまった……やっちまった……」と、ぶつぶつ言いながら、酔っぱらいのようにおぼつかない足取りだ。  もし、あなたが小向とすれ違っていたら、かなり不気味だったことでしょう。  小向がふらふらと、神社の前を通り過ぎようとしたとき、境内に人の気配を感じ、ぴたりと足を止めた。境内の方にそろそろと顔を向け、真っ暗闇に目を凝らす。(あか)い塗装が剥げた鳥居の、両脇に鎮座する狐がこっちを見ているようだ。  昔ばあちゃんが、丑三つ時の神社には絶対に立ち入っちゃいけないと言っていた。夜中の神社は神様が留守のため、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が集まるからだという。  ぶるっと悪寒がはしり、肩をすくめたとき、境内から黒い物体が飛び出し、咄嗟に目をつむった。心臓がぎゅっと縮みあがる。  飛び出てきたなにかが、自分の方を見ている。閉じた瞼を通して、気配を感じた。  小向はごくんと生唾を飲み、両の瞼を、ゆっくりと上げた。  暗闇に眼を光らせた黒猫が「ニャア」と小さく鳴き、サッと闇夜に消えていった。 「なんだ、おどかすなよ……」と、安堵を吐き出したとき、道端に何か落ちていることに気がついた。ちょうど黒猫がいたあたりだ。  近づいて見ると、一冊の本だった。  腰をかがめ右手で拾い上げる。  単行本サイズの表紙に、こう書いてある。 “幸せになれる本”  いままでの小向なら、こんな自己啓発ふうの本に興味はなかったが、今は違う。あんなことがあった後だ。  小向は本の砂をぱんぱんと払い、右肩に下げたトートバックに突っ込み、その場を後にした。  闇夜に消えていく小向の後ろ姿を、神社の境内の樹の陰から、髪の長い女が、じっと見ていた。
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