第一幕 第3章 私だけの居場所

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芦田さんは、まったく合点のいかない私に、「まあ、そうですよね」というふうに細かい内容を話してくれた。 どうやら、さっきの説明は私が理解できない前提だったらしい。 「この時計は、この書店——桜庭書房に、代々伝わるちょっと特殊な時計なんです。見ての通り、一見すると普通の腕時計なのですが、この時計をつけた人には、ある特殊な能力が芽生えます」 何だろう。先ほどとは打って変わって、落ち着いた口ぶりに丁寧な説明。この人、本当は繊細な人なんだ。ただ最初は私の警戒心を解くために、わざと言葉足らずな説明をした。こんなところだろう。 「能力って?」 「それは、私たちが普通に生活をしていたら絶対に見ることができないものが見えるようになる、という能力です。能力が芽生える、というよりこの時計が、あるものを“見せてくれる”と言う方が正しいかもしれません。時にはテストの答えだったり、好きな人の恋愛感情だったり。時計を着ける人によって、何が見えるかは変わってきます」 「テストの答えに、恋愛感情?」 急には飲み込めない話だし、こうも冷静に説明されても、「はい分かりました」と頷くのが難しい。 「今のは、一例です。別のものが見える可能性もあります」 「たとえばどんな」 「それを、あなたに教えて欲しいのです。『ブラック時計』を着けてみてから」 「そういうことかあ」 なんとなく、分かってきた。 とにかくこの『ブラック時計』にはつけた人に「何かが見えるようになる」という特殊な効果があって、それを私にも実験して欲しいということらしい。 夏休みの自由研究にするならもってこいの話題だけれど、あいにく、三学期が始まったばかり。自由研究にするのは難しそうだ。 「どうでしょう。『ブラック時計』、試してくれますか?」 芦田さんの目。 本物だった。 子供騙しで私に時計をつけることを頼んでいるのではなく、真っ直ぐな目で私を見ていて、本気モードだと分かる。 どうして『ブラック時計』を誰かにつけてもらうことに、これほど必死になるのか不思議だけれど、真面目そうな店員さんだし、三毛猫の雑誌をもらえるならやってみよう。 「分かった。試してみます、その時計」 「本当ですか!」 途端、ほっとしたのか明るい表情になった芦田さんが、すごく印象的だった。 「じゃあ、その本と引き換えに」 「ありがとう」 私は私で、三毛猫雑誌が手に入って嬉しかった。 「何か、見えるようになったらまた教えてくださいね」 そうか。これは実験なのだから、その結果は伝えなくちゃいけないんだ。 分かりました、と頷いてみせると、芦田さんがまた優しい目をして笑ってくれた。最初から表情の少ない人だと思っていたので、こうして微笑んでくれるのは嬉しい。そういえば、学校でクラスメイトから無視されるようになってからというもの、親以外の大人から優しくされることがなくなっていた。担任の石原先生も、見て見ぬふりをする他の2年生の先生たちも、決して私を慰めてはくれない。もっとも、これといって自分から助けを求めようともしていないのだから仕方ない。今、先生たちに優しくされたところで、逆におせっかいだって感じるかもしれない。とてもわがままだけど、中学生なんて皆こんなものだろう。 約束通り、三毛猫雑誌を手に桜庭書房をあとにした。 早くに学校が終わったのに、気付いたらもう午後4時を回っていた。 右腕に提げた雑誌の入った袋と、左腕につけた黒い時計。 腕につけた人に、何かが見えるというブラック時計。 信じていいのか分からないけれど、憂鬱だった日常が、ちょっとは明るくなるかもしれない。 今はまだ、確証はないけれど。 2学期とは違う3学期の始まりだ。 桜庭書房から自宅までの帰り道、曇り空、雲の隙間から、橙色の夕陽が少しずつ顔をのぞかせていた。
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