第一幕 第3章 私だけの居場所

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「おかえり。……どうしたの?」 玄関で出迎えてくれた母が、一番に私の異変に気がついた。さっきまで鼻水ぐずぐずで涙が止まらなかったから、目と鼻が赤くなってたのだ。 「……転んだ」 とても苦しい言い訳だと思いつつ、私は嘘をついた。「学校でいじめられていて、動物たちが優しくしてくれた」だなんて、ダブルコンボで衝撃が大きすぎる。母からすれば、信じたくないことと信じられないことが同時に襲ってくるのだ。 「まったく、気をつけなさいよ」 私の嘘を信じてくれたのか、はたまた信じたフリをしたのか、母はそれ以上込み入ったことを聞かないでくれた。普段は鬱陶しいくらい過保護なのに、こんなときは妙な遠慮ができるものだ。 「宿題、してくる」 「うん。頑張って」 自分の部屋の扉を閉めた途端、どっと疲れが押し寄せてくる。どうして私が母を気遣って神経を使う必要があるんだろう。私は被害者のはずなのに。世の中ってほんと、理不尽。14歳で知りたくなかったよ。 疲れている、むしゃくしゃする。でも、帰り道に自分を心配してくれた鳥や犬、猫たちの心の温かさを思うと、自然と肩の力が抜けてゆくのが分かった。 今日、宿題が出た数学と英語の問題集を開く。ペンを握り、ノートに向き合う時間は、どの瞬間も孤独や悔しさを感じなくて良いから好きだった。 問題を解くことに集中していると、あっという間に時間が過ぎていた。窓の外を見ると、すっかり暗くなっていて、同時に小雨が降ってきたようだ。窓の表面に、まばらな水滴が張り付いていた。 「加奈〜ご飯できたわよ」 1階から母が私を呼び、もう夕飯の時間なんだと気づく。 朝、昼、夜。 給食の時間も含め、ご飯の時間だけは毎日同じようにやってきてお腹の減りを満たしてくれるから安心できた。気持ちが沈んでいる日も、お腹いっぱいになれば、「もうどうでもいいや」と良い意味で開き直っている。私はきっと単純な生き物なのだ。 1階に降り、ダイニングルームに入ると、お父さんが仕事から帰ってきていた。ごく普通のサラリーマンだけど、あまり外で飲み歩いたりはしない。夕食の時間には必ず帰ってくるのは、子供の私から見ても偉いと思う。 「お父さんおかえり」 「おう。ただいま」 お母さんが過保護な分、お父さんは昔から適当に私を扱う。けれど、見捨てられているという感じは全くない。いつも私の身を案じているお母さんと対照的で、あっけらかんとした対応がむしろ心地よかった。 お母さんが準備したご飯が、ダイニングテーブルの上にずらりと並ぶ。今日のおかずは私の好きなエビフライだった。 「いただきます」 家族三人で手を合わせて揚げたてのエビフライを齧る。文字通り、サクッという心地よい音がした。中はプリプリのエビ。歯応えがとても良い。 「うまい!」 お父さんは、もう何十年もお母さんの手料理を食べているはずなのに、毎回律儀に「うまい」と口にする。しかもそれが、妻を労ってやろうという策略ではなく、心の底から出る言葉だから、すごい。 「母さんのエビフライは最高だ」 「エビフライ」のところは「ハンバーグ」だったり「カレーライス」だったりする。要は、お父さんにとってどんなご飯も、お母さんが作ったのものなら最高というわけだ。 「良かったわ」 そんなお父さんに、飽きずにお母さんも喜んでいる。私よりもうんと大人の二人の方が、私よりもずっと素直な気がする。 学校で嫌な思いをしていても、家族の前でそれを口にすることができない。もっと前は「自分はいじめられてなんかいない」と、自分自身にも素直じゃなかった。今の苦しい状況から抜け出したいと、心が叫んでいたのに。 エビフライと、添え物のキャベツを頬張りながら、母と父の間に挟まる自分を省みる時間。この時間が、あと何回、何十回続くのだろうと想像してみる。できれば、少ない方が良いな。学年が上がれば、こんなこともなくなるのだろうかと、ふと思った。 そのうち、お父さんが思い出したようにテレビの電源をつけた。食事中に、テレビを見るのは習慣だったのに、今日は大好物のエビフライに釣られてテレビの存在を忘れていた。 「週末、大雨だって」 男性のお天気キャスターが棒で雨雲の動きを示しながら、次の日曜日は大雨だからお出かけには注意してくださいと言った。 「日曜雨とか、最悪」 学校での友人関係に恵まれていない私にとって、休日は最高の気分転換日だ。休日の心の安寧を味わうために、平日を耐えて過ごしていると言っても過言ではない。 「大人しく家にいるしかないわね」 普段なら、家族でお出かけに行くところなのだが、こういう時は仕方がない。それに、単なる雨ならまだしも、大雨洪水警報が出る可能性もあるということだ。 「つまんないの」 中学生になっても、動物園とか水族館とか、平気で楽しめてしまう性分なので、この日曜日は退屈だろう。 「まあ、たまには家でゆっくりするのも良いんじゃないか」 お父さんは休日、車の運転をさせられることが多いから、ゆっくりしたいのだろう。 「分かった。家でゲームでもしてる」 引きこもって楽しめるものといえば、ゲームぐらいしかない。 ご飯を食べながら、日曜日の過ごし方について考えていたが、ふと“みんな”の顔が浮かんだ。 雨風がひどい日、動物たちは安全な場所に上手く身を潜めているのだと言った。それを聞いて安心したのだけれど、万一のことだって、あるだろう。 今度の日曜日、彼らは大丈夫なのだろうか……?
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