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そう。苦痛に顔を歪めて必死にもがいているのは、私を散々いじめてきた田中理恵だった。
頭が真っ白になった。理恵を助けよう、そう動き出す前に、心の中でストップをかける自分がいた。
いくら、自分をいじめている相手だって、命を落としそうになっているところを見捨てるわけにはいかない。分かっている。分かっているのに、すぐには身体が動けずにいた。
もし、理恵がいなくなったら?
私は理恵を、恨んでるんじゃないのか。
彼女がいなければ、彼女さえいなければ、毎日こんなに悩むことなんか、なかったんじゃないのか。
正義と偽善。考える必要のない言葉が次々と浮かんは消える。
見て見ぬ振りをすることは簡単だ。私が今まで、どれだけ彼女からひどいことをされてきたかを考えれば、どう見たって私の方が被害者だ。
でも、それでいいの。
それで、後悔はしないの?
「助けて……!」
橋の上に、人がいることに気づいたらしい理恵が、今にも途切れそうなか細い声で助けを呼ぶ。
叫ぶ。
叫べ、もっともっと。
私の迷いが断ち切れるくらい、もっと、叫んで!
「加奈、早くいかないと!」
ツバメの言葉が、私の背中をドンと押す。考えている暇はない。迷っている暇はない。たとえ憎たらしい人物でも、彼女を大切に想っている人がいる。家族や友人がいる。悔しいけれど、もしかしたら串間悟だってそうかもしれない。
「分かった! 今、行くから」
助けられるなんて、思ってなかった。
本当は、真っ先に救急車を呼ぶべきだと知っていたけれど、生憎私は携帯電話を持っていない。慌てて出てきたため、親にだって何も言えなかった。せめて、居場所くらい伝えておけば良かったかな。
周りを見回して、彼女を助けるための道具がないか探した。
風が強かったからか、川辺には折れた木の枝が散らばっている。
あれだ。
私は、意を決して河原まで降りて、一番長い木の枝を拾った。
川の水位がまだ、河原を覆い尽くすほど上がっていなかったのが幸いだった。
恐る恐る、川に近く。顔に跳ねた水しぶきが、びっくりするほど冷たい。こんなに冷たい水の中に、理恵はずっと浸かっている。
早く、助けなきゃ。
早く、早く!
「理恵! 掴まって!」
私は、木の枝を思いっきり彼女の方に伸ばした。
彼女は、助けにきた私の顔を見て、はっと顔を強張らせ、手を伸ばすのを躊躇う。
「迷ってる場合じゃないでしょう! 早く掴んで!」
いじめているはずの相手が必死の形相で自分を助けようとしていることに気圧されたのか、彼女は、ばっと腕を伸ばし、私が差し出した枝を掴んだ。
「理恵、私はあなたが嫌いだけれど、死んで欲しいとまでは思ってない。だから生きなきゃダメなの! 私も、生きる!」
彼女を引っ張りながら、訳のわからないことを叫ぶ私。
「加奈、頑張れ!」
私のレイコートの端をくちばしで引っ張って少しでも力を貸そうと協力してくれるツバメ。
「おーい、こっちだ!」
「いたぞ」
「加奈!」
遠くから、私の名を呼ぶ声がする。
気がつけば橋の上に、たくさんの動物たちが駆けつけてくれていた。犬、猫、カラス、ハト、イタチまで。
一度会話したことがある子たちばかりだ。学校で落ち込んだ私を励まし、いつも温かい言葉をかけてくれた動物たち。
その中になぜか、彼がいた。
「吉原、今そっちに行く!」
串間悟。
それほど親しい仲ではないはずの彼が、急に恋しくなり早く下まで来てと祈った。
動物たちとクラスメイト一人が土手から河原まで滑り降りて、私の身体をがっしりと掴んだ。私の真後ろに、悟がいる。こんな事態なのにどきりと心臓が跳ねた。それから、「大きなかぶ」を引っこ抜く一隊のように次々と動物たちが後ろから私たちを引っ張る。
「理恵、頑張って!」
もう、敵も味方も関係なかった。
目の前で溺れかけているクラスメイトを、ただ助けたかった。何もしないで見ているだけなんて、まっぴらだ。
「せーのっ」
悟の声に合わせて、私たちは思い切り理恵を引っ張り上げた。川の流れは激しかったけれど、全員で力を合わせると、先ほどとは比べ物にならないくらい、理恵の体が大きくこちらに動いた。私たちはとうとう、理恵を岸へと引きずりだしたのだ。
雨が、少しだけ弱まっていた。
先ほどよりも外を歩く人が増えて、川の下で何か騒動があったのだと、橋からこちらを覗き込む人がいた。
「大丈夫か!」
そう声をかけてくれる人もいた。
スマホを手に、救急車を呼ぶ人もいた。
でも、私は彼らの行動のほとんどが、あまり目に入らなかった。
私の世界は、田中理恵を、悟や動物たちと助けた現実だけだった。河原に広がる、安堵のため息と、良かったという声だけ。
生きている。
私は今、ここで生きている。
動物たちが互いに顔を見合わせて、「じゃあまたね」と去っていった。彼らの言葉は私にしか聞こえていなかったけれど、理恵も悟も、彼らが一生懸命人助けをしてくれたことを見ていただろう。
理恵が、力なく「ありがとう」と言った。最初に助けたのが私だったことも、きっともう気にしていないだろう。
不意に悟が、私の肩に手を載せてきた。
「吉原、良かった」
「うん」
「良かったよ。お前がいてくれて」
嬉しい、という言葉を超える感情を、私はこの時初めて知った。
悟の目が、紛れもなく私を見ている。私の存在を認めてくれている。嘘みたいな話だ。教室のどこにも、私の居場所なんてなかったはずなのに。
悟の肩越しに、理恵の瞳が揺れた。
私たちは今ここで、息をしている。
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