10人が本棚に入れています
本棚に追加
もう好きじゃない
最後のデートの日がやってきた。
私は胸がはりさけそうなほど、彼が好きなのに。なぜ別れなきゃいけないんだろう。
きっと、もう、こんなに好きになれる人には出会えない。
それなのに、彼の心は、もう私ではない人に向いている。
だから私は、作戦を実行した。
「最後に一度だけ、二人きりで出かけたい」
私のわがままを聞き入れてくれた彼は、とても優しい人だ。相手の気持ちを考えてくれる人だ。そんなところも、とても好き。
彼の車で水族館に行った。
私はシャチが好きだけれど、水族館にいるシャチは迫力がなくて好きじゃない、と思った。
水族館デートを企画した彼のセンスはいまいちだ。
水族館の次は、夜景の美しさが売りのレストランで食事。
カップルが沢山いた。どのカップルも同じように見えた。夜景を見て、男に話しかけて、ムードに酔っている女と、嘘の笑顔を返しながら、そのあとのことを考えている男。
愛し合っている男女って、実は滑稽なものなんだな、と思った。
「じゃあ、帰ろう」
と彼が言った。
「もう少し……もう少しだけ、一緒にいて」
私がすがると、彼は困った顔をしたけれど
「わかったよ。じゃあコーヒーを飲みに行こうか」
と言って、カフェに向かって運転を始めた。
私は運転している彼の横顔が好きだった。彼は整った顔立ちをしている。
助手席でその横顔を見ていられるのは、私の特権だったのに。助手席は私の席だったのに。
カフェはテーブルが小さいから、向かい合った彼との距離が近くて、好きだ。
私は彼と初めてデートをした日の話ばかりした。
「私、あのとき、すっごく緊張していたの」
「うん」
「それでね、なにを話したらいいか……なんだかもう、舞い上がっちゃって」
「うん」
彼は頷きながら、チラチラと私のコーヒーカップばかり見ていた。
早く飲んでくれよ。早く飲んで、帰ろうよ。察してくれよ。
そう言えないから、態度で表しているのだ。
冷静になってみると、彼はカッコ悪い男だな、と私は思った。
「もう十一時だし、そろそろ帰ろう」
と、彼は言った。
駐車場から車を出すと、彼は私の家に向かい始めた。送り届けて、さっさとこのデートを終わりにしたいと思っているのだろう。
「もう少し……もう少しだけ、一緒にいて。最後なんでしょ?もう会えないんでしょ?だったら、もう少しだけ、そばにいて」
私は涙声で彼にすがった。
「うーん……じゃあ少し遠回りして帰ろうか」
彼はやっぱり困ったような顔をして、それでも私の気持ちを考えてくれた。
カフェから車で十分くらいの距離のところを、彼は二十分くらいかけて送ってくれた。
その二十分のあいだ、私は、この助手席にそんなに未練はないな、と思っていた。
たぶん私はすぐほかの誰かを好きになるだろうし、一週間くらいで彼のことを考えなくなるだろう。
本当はすがるほど彼を好きではなかったかもしれない。
敢えて、演技してみた、ってところ。
私を捨てて、ほかの女を選んだ彼に対する、ささやかな復讐。
そう、本当はもうそんなに好きじゃない。
「今までありがとう」
少し震える声しか出なかったけれど、私は無理やり笑顔を作った。
「こちらこそ、ありがとう」
彼は早く私を車から降ろしたかったのか、助手席のシートベルトを、カチャン、と音を立てて外した。
私はなにも考えず、なにも思わず、車から降りた。
心も頭も、フリーズさせていなければ、きっと持ちこたえられない。それは防衛本能だったのかもしれない。
彼の車が角を曲がるまで、じっと見ていた。
もうあの車を見ることもないし、乗せてもらうこともない。今はまだ、助手席に私が乗っていたという思い出が、彼の心に残っているだろうが、次の、彼に愛されている彼女が乗るようになったら、私の思い出なんて片隅に追いやられるだろう。
そしていつか彼は車を買い換える。そのときはもう、私なんて思い出してももらえないのだ。
震える手で、私は自分の部屋の鍵を、なんとか開けた。なかなか鍵穴に鍵が入らなくて、泣きそうになった。
好きな人と別れたからではなくて、鍵がなかなか開けられなかったからだ。
手洗いとうがいを普段より念入りにやった。
熱いお湯でシャワーを浴び、髪と体と顔を二回ずつ洗った。
彼のにおいとか、思い出とか、なかなか飲まなかったコーヒーとか。とにかくあらゆるものを洗い流したかった。
さっぱりして、鏡の前で髪を乾かした。ドライヤーのブオーという音が、私の独り言をかき消してくれた。
気持ち、冷めた。
つまんないデート。
水族館にいるシャチは狭くて迫力ないし、夜景がきれいなレストランに連れていかれても、ムードに酔えない。
カフェにいたときの彼、最低だったな。私はしんみりしないように、楽しい話題で盛り上げようとしたのに。彼、意外とカッコ悪い。
うん、私、もうあまり彼のこと、好きじゃない。
ドライヤーを止めて、鏡を見たら、目を真っ赤にして、涙をボロボロ流している私が映っていた。
沢山嫌なところを探して、必死に、もう好きじゃない、と思い込もうとした。そのための、最後のデートだったのに。
もう少しだけ一緒にいて、なんてすがってみせて、彼の心に罪悪感を植えつけようとしたのに。
そういう作戦だったのに。
でも全然効果がないほど、どうしようもなく彼が好きだ。
鍵が開かないの、って電話をしたって、彼はもう来てくれない。
もう少しだけ一緒にいて、とすがっても、もう困った顔をしながら、いいよ、とは言わない。
「もう少しだけ、じゃない。ずっとだよ。ずっと一緒にいてよ」
鏡に映る自分に呟いたら、限界を越えた。
私は叫ぶように、何時間も号泣した。
最初のコメントを投稿しよう!