もう好きじゃない

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もう好きじゃない

 最後のデートの日がやってきた。  私は胸がはりさけそうなほど、彼が好きなのに。なぜ別れなきゃいけないんだろう。  きっと、もう、こんなに好きになれる人には出会えない。  それなのに、彼の心は、もう私ではない人に向いている。  だから私は、作戦を実行した。 「最後に一度だけ、二人きりで出かけたい」  私のわがままを聞き入れてくれた彼は、とても優しい人だ。相手の気持ちを考えてくれる人だ。そんなところも、とても好き。  彼の車で水族館に行った。  私はシャチが好きだけれど、水族館にいるシャチは迫力がなくて好きじゃない、と思った。  水族館デートを企画した彼のセンスはいまいちだ。  水族館の次は、夜景の美しさが売りのレストランで食事。  カップルが沢山いた。どのカップルも同じように見えた。夜景を見て、男に話しかけて、ムードに酔っている女と、嘘の笑顔を返しながら、そのあとのことを考えている男。  愛し合っている男女って、実は滑稽なものなんだな、と思った。 「じゃあ、帰ろう」 と彼が言った。 「もう少し……もう少しだけ、一緒にいて」  私がすがると、彼は困った顔をしたけれど 「わかったよ。じゃあコーヒーを飲みに行こうか」 と言って、カフェに向かって運転を始めた。  私は運転している彼の横顔が好きだった。彼は整った顔立ちをしている。  助手席でその横顔を見ていられるのは、私の特権だったのに。助手席は私の席だったのに。  カフェはテーブルが小さいから、向かい合った彼との距離が近くて、好きだ。  私は彼と初めてデートをした日の話ばかりした。 「私、あのとき、すっごく緊張していたの」 「うん」 「それでね、なにを話したらいいか……なんだかもう、舞い上がっちゃって」 「うん」  彼は頷きながら、チラチラと私のコーヒーカップばかり見ていた。  早く飲んでくれよ。早く飲んで、帰ろうよ。察してくれよ。  そう言えないから、態度で表しているのだ。  冷静になってみると、彼はカッコ悪い男だな、と私は思った。 「もう十一時だし、そろそろ帰ろう」 と、彼は言った。  駐車場から車を出すと、彼は私の家に向かい始めた。送り届けて、さっさとこのデートを終わりにしたいと思っているのだろう。 「もう少し……もう少しだけ、一緒にいて。最後なんでしょ?もう会えないんでしょ?だったら、もう少しだけ、そばにいて」  私は涙声で彼にすがった。 「うーん……じゃあ少し遠回りして帰ろうか」  彼はやっぱり困ったような顔をして、それでも私の気持ちを考えてくれた。  カフェから車で十分くらいの距離のところを、彼は二十分くらいかけて送ってくれた。  その二十分のあいだ、私は、この助手席にそんなに未練はないな、と思っていた。  たぶん私はすぐほかの誰かを好きになるだろうし、一週間くらいで彼のことを考えなくなるだろう。  本当はすがるほど彼を好きではなかったかもしれない。  敢えて、演技してみた、ってところ。  私を捨てて、ほかの女を選んだ彼に対する、ささやかな復讐。  そう、本当はもうそんなに好きじゃない。 「今までありがとう」  少し震える声しか出なかったけれど、私は無理やり笑顔を作った。 「こちらこそ、ありがとう」  彼は早く私を車から降ろしたかったのか、助手席のシートベルトを、カチャン、と音を立てて外した。  私はなにも考えず、なにも思わず、車から降りた。  心も頭も、フリーズさせていなければ、きっと持ちこたえられない。それは防衛本能だったのかもしれない。  彼の車が角を曲がるまで、じっと見ていた。  もうあの車を見ることもないし、乗せてもらうこともない。今はまだ、助手席に私が乗っていたという思い出が、彼の心に残っているだろうが、次の、彼に愛されている彼女が乗るようになったら、私の思い出なんて片隅に追いやられるだろう。  そしていつか彼は車を買い換える。そのときはもう、私なんて思い出してももらえないのだ。  震える手で、私は自分の部屋の鍵を、なんとか開けた。なかなか鍵穴に鍵が入らなくて、泣きそうになった。  好きな人と別れたからではなくて、鍵がなかなか開けられなかったからだ。  手洗いとうがいを普段より念入りにやった。  熱いお湯でシャワーを浴び、髪と体と顔を二回ずつ洗った。  彼のにおいとか、思い出とか、なかなか飲まなかったコーヒーとか。とにかくあらゆるものを洗い流したかった。  さっぱりして、鏡の前で髪を乾かした。ドライヤーのブオーという音が、私の独り言をかき消してくれた。  気持ち、冷めた。  つまんないデート。  水族館にいるシャチは狭くて迫力ないし、夜景がきれいなレストランに連れていかれても、ムードに酔えない。  カフェにいたときの彼、最低だったな。私はしんみりしないように、楽しい話題で盛り上げようとしたのに。彼、意外とカッコ悪い。  うん、私、もうあまり彼のこと、好きじゃない。  ドライヤーを止めて、鏡を見たら、目を真っ赤にして、涙をボロボロ流している私が映っていた。  沢山嫌なところを探して、必死に、もう好きじゃない、と思い込もうとした。そのための、最後のデートだったのに。  もう少しだけ一緒にいて、なんてすがってみせて、彼の心に罪悪感を植えつけようとしたのに。  そういう作戦だったのに。  でも全然効果がないほど、どうしようもなく彼が好きだ。  鍵が開かないの、って電話をしたって、彼はもう来てくれない。  もう少しだけ一緒にいて、とすがっても、もう困った顔をしながら、いいよ、とは言わない。 「もう少しだけ、じゃない。ずっとだよ。ずっと一緒にいてよ」  鏡に映る自分に呟いたら、限界を越えた。  私は叫ぶように、何時間も号泣した。
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