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それから晴天の週末を挟んだ月曜日、私はいつもの時刻に植物公園に向かった。
もう春休みに入っているのに、桜の木の下の篠田君は制服姿のままだ。
私は篠田君に手を振ると、絵筆を手にする彼の横に並んで桜を見上げた。
「すごいね。桜、満開だ」
「土日、天気が良かったからなあ。今日が最高の見頃かも」
「ソメイヨシノの色、上手く出せそう?」
「いい感じ。完成を期待しててよ」
平日の昼下がりなのに公園は人が多い。
一眼レフカメラを手にした男性が、私に不審そうな目を向けた。桜の下で独り言を喋るおかしな子に思われたのだろう。
「ねえ、私、篠田君に大事な話があるの」
私は姿勢を正して篠田君に向き直る。
ばくばくと、心臓が早鐘を打つ。自分の頬が紅く染まっていくのがわかる。
篠田君はどこか淋しそうに、優しい目で私を見つめ返した。
「うん」
「私、この植物公園でスケッチをしてる篠田君が、大好きだったよ。最後に楽しい時間をくれてありがとう。篠田君とこうして話してみたかったこと、叶えてくれてありがとう」
声が震えそうになる。
篠田君は何かを悟ったように少しの間、桜の枝を仰ぎみると、やがて泣いているような笑顔を浮かべた。
「お礼を言いたいのは、俺の方だよ。大庭さんがいてくれたから、桜が描けた。満開まで、ここにいられた。ありがとう。俺、大庭さんのこと、忘れない」
私も絶対に、篠田君のことを忘れない。
言いかけたところで、突然、強い風が吹いた。
風に煽られた桜の木は枝を揺らし、花びらが一気に宙に舞う。
目の前の篠田君が一瞬だけ、花吹雪に覆われた。
桜並木のあちこちで、楽しそうな歓声が上がる。くるくると踊る花びらは、夢を見ているように美しい。
気づいたときには、私の目の前から篠田君の姿は消えていた。
代わりに、一冊のスケッチブックが地面に落ちていた。
篠田君のスケッチブックだ。
私は呆然としたまま、持ち主を失ったスケッチブックを拾い上げて、パラパラとページを繰る。
どのページも、真っ白いまま。
そう思っていたのに、一番最初のページにだけ絵が描かれていることに気づいて、私は息を呑んだ。
鉛筆で描かれた、屈んで花壇を覗き込んでいる制服姿の女の子の横顔。
この世の人でなくなった篠田君は、新しく何かを生み出すことはできない。
では、これは?
この絵が描かれたのは……。
篠田君がいつの日にかスケッチブックに描いた私の絵の上に、ひらひらと桜の花びらが一枚舞い降りた。
淡い淡いピンク色の花びらは、スケッチブックの中の私を彩る絵のようだった。
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