優しさについて :「煙草」の主題

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優しさについて :「煙草」の主題

「優しさ」を実践するのは思いのほか難しい。思慮深い人ならば、何をするのが優しさなのか、今自分がしたことは本当に優しさだったのか、そんな風に思い悩んだ経験もあるだろうと思う。そう言っている僕もその一人で、優しさ(=利他主義)がどういうものかということは、自分の人生における大問題だったと言っても過言じゃない。 優しさには大まかに3つの考え方がある。①功利主義=「結果が良ければ、それは全て優しさ」 ②動機論=「結果よりも、なぜ行動したかで優しさは決まる」 ③ニーチェ的な考え ①に添えば、優しさはかなり多くのものを指してしまう。老人に席を譲る青年も、外国人に道案内する帰国子女も、はたまた金儲けベンチャーに投資する投資家も。実際、現代で最も説得力があるのはこの考え方だ。 「一人を殺せば他の三人が助かる。君は殺すか?」という有名なトロッコ問題では、かなりの割合がYESと答え、その理由を聞いてみると、「その方が犠牲が少なくて済むから」と自信満々で言う。要は、「結果が良いなら、殺人もいとわない」と言っているのだ。 だが、何かおかしくないだろうか?優しさというものはそんなに簡単なものなんだろうか?殺人を犯すことが優しさだと言われてしまうと、やっぱり気に食わない。①の問題は、一面的に物事を捉え過ぎているところにある。「これは優しさですか?」「はいそうです/ いいえ違います」なんていう風に答えられるほど、優しさは簡単じゃない。そこで、②の考え方がある ②に添えば、優しさはかなり限定され、主観的なものになる。例えば、「老人に席を譲る青年は優しいのか?」という問いに対する答えは、「もし青年が本当に老人を哀れんで譲ったなら優しいと言えるけど、例えば隣に好きな子がいて、その子へのアピールとして席を譲ったなら優しいどころか強欲だ」となる。この考え方に添えば、利益をあげる投資をした人は、いくら社会の役に立っていようと優しいとは言えないし、困っている人への同情心から、あるいは自分で助けると決めたから、という動機しか優しさとは呼べない こちらに賛同する人は多いと思う。実際、僕もそうだっ。貧乏だと社会に貢献するのすら難しいけど、それでも優しい人はたくさんいるし、金持ちだと社会に貢献するのは簡単だけど、それでも冷酷な人はたくさんいる。社会への貢献度で優しさを測る①の考えがどれだけバカらしいか分かってくれるだろう。 だがそれでも尚、問題はある。そもそも、優しさ=利他主義は「人のためになりたい」「人を助けたい」という感情のことだ。はて、自分が安定していないうちに、人のことなど心配できるだろうか? 結論を急いで言うと、出来ないことはない。出来ないことはないんだが、必ずどこかしらで「自分のため」になってしまう。 例えば、裁判官が安定した収入をもらっているのはこれが理由で、やはり良心を純粋に働かせるには自分のことがある程度安定した状態でないとダメなのだ。もし裁判官の年収が200万くらいだったら、判決に大きな影響が出てしまうことは容易に想像できる。 結論、「優しさとは人のために何かをすることだが、ある程度自分が安定していないと「人のため」ということがブレてくるので、まずは自分が安定することが大事」
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