ニヒリズム :「燎原の火」の主題

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ニヒリズム :「燎原の火」の主題

現代を生きる人ならば、一度は「僕の/私の人生に意味などあるんだろうか」と考えたことがあるのではないだろうか。まさに、それがニヒリズムだ。 ところが昔は、例えば中世のヨーロッパではそんな悩みはなかった。なぜかというと、彼らには自由がないから。土地を分けてくれている領主様のための労働に追われ、ようやく休めると思ったら今度は教会に通って神父様に教えを()うという生活。人生の意味なんて考える必要もなくて、求めずとも領主や教会が勝手に与えてくれた。それはまあ、精神的には健康な生活だった。 しかし、産業社会が熟した19世期に、これが完全に崩れてニヒリズムが蔓延し始める。そしてその時代が今までずっと尾を引いているのだ。哲学者サルトルをして「我々はに処されている」と言わしめるほど、現代に生きる私たちは苦しい。 特に宗教性のない日本ではそういったニヒルな傾向が強くて、社会指標(国民の身体的、精神的健康状態)は先進国でも最悪。確認してみると、「自分に長所はない。将来に希望はない。生きる目的はない。悩みを相談できる友達はいない。家族に愛されていると思えたことがない。恋人はいない」と、まあ見ているだけでも悲しい。 かなりマイナーだが、ジュパンチッチという学者は「我々は大義のために死ねるものに憧れている」というようなことを言った。正直、この主張がどこまで受け入れてもらえるか分からないが、少なくとも現代人が「何かのために」という感覚に欠けているのは事実だろう。日本の経済的問題もあるが、最近は利害関係を超越して、ただ何かのために行動するということさえ難しくなっている。 より「燎原の火」の主題に近づけるために、山本常朝とハイデガーを紹介しようと思う。山本常朝(つねとも)は、元禄の、平和で華麗な時代に士族として生まれ、「葉隠文書」で「武士道といふは、死ぬことと見つけたり」という有名な文を残している。だがこうまで言っておきながら、常朝は寿命を全うして、静かに畳の上に倒れた。実はこの言葉は、自決を禁じられ、武士道という巨大な価値体系から隔絶されてしまった常朝がニヒリズムとのギリギリのせめぎ合いの中で紡ぎ出したものなのだ。 そして、その200年後にハイデガーが似たようなことを言う。人間は「死への存在」であると。いわく、「近代人が不安なのは生が無限のように感じられるからで、死がすぐそこに迫っていることを自覚したら不安は自ずと晴れる」と。宿題を思い浮かべてくれればわかりやすいが、期日が例えば3年後とかだとしたら、やる気はそうそう起こらない。人間の生もそうで、死が100年後だと思っていると、やはり生はダレて倦怠してしまうのだ。 「むき出しの生」という言葉で表されるような「自分さえ良ければ、楽しければ、それで良い」というような主張も、ニヒリズムの一種…というかニヒリズムの当然の帰結であって、やはり一人間としてそれには抵抗しなければならないと思う。 この死への存在という主題を盛り込んだのが「燎原の火」。また修正を加えるために非公開にする予定だが、興味があればぜひ読んで欲しい。 人に読まれたいがためだけの小説を書きたくない≠誰にも読まれなくても良い だからね。。
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