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『悲しみよこんにちは』はサガンだっけ。事態を飲み込んだ時、何故かこのフレーズが降りてきた。
右の前歯がない──。
気づいたのは歯磨きの最中。奇しくも、失った前歯をそうとは知らずに磨くべく、洗面台の鏡に向かってイーッとした時のことである。
口内に広がっていた起き抜けの不快感は、歯磨き粉の泡ごと「ブッ!」と盛大に吹き出された。眠気も吹っ飛んだ。そこそこ長い人生史上、これほどアホ面な自分自身を見たのは初めてだと思う。
「……嘘でしょ?」
上唇を捲って確認した結果、ポッキリ折れただけで歯の根元は辛うじて残っていた。でも何にせよ見た目はヌケサク、完全に町の笑い者である。
どうしてこんな悲劇が、と騒ぎたいところだが、原因は明白。昨日というか日付的には今日未明、電信柱と顔面が喧嘩したせいだ。いや、電信柱は不動明王だから、あたしが勝手に戦いを挑んだのだ、恐らく。
恐らくが付くのは、泥酔していて記憶が曖昧だから。馬鹿な夢だと思いたいけれど、実際歯は折れているし額も鼻の頭も軽く痛い。紛れもない事実だろう。
果たして前歯よさようなら、悲しみよこんにちは。
無鉄砲な好奇心で快楽を求めた果てに待っているのは悲劇だと、大昔に読んだあの物語が教えてくれたのに。あたしは主人公セシルの年齢から人生やり直した方がいい。
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