1 女精

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1 女精

 ジルベール保護領。精霊界と隣り合わせの森の国で、イリューシャは領主の妹として暮らしていた。  兄のダミア・サリ・ジルベール卿が親代わりだった。まだ首も座らない内から、ダミアが湖のほとりにイリューシャのためだけに作った居館で、無性たちに守られて育った。  無性(むせい)の本性は、水や風といった無機物だ。ふと現れ、何かの折にまた自然に還る。  一方でダミアたち有翼人種の本性は獣性だった。その獣性で無性たちを圧倒し、地上を支配するに至ったが、今度は自らの獣性が支配できなくなった。暴力が横行し、とりわけそれは女性の個体に向いた。  知恵ある有翼人種たちが気づいたときには、遅かった。獣性の弱い女児は暴力にさらされてきたために、生命は自己防衛を取って、女児が生まれなくなっていた。  有翼人種たちは危険を冒して精霊界に立ち入り、女性性の個体を連れ帰ろうとした。しかし精霊界の女精(にょせい)は獣性を嫌い、有翼人種に精を注がれると発狂状態になって、子を産む前に命を落としてしまう。  有翼人種はすぐに滅びはしなかった。彼らは無性よりはるかに長い生を若い姿のまま生きる。  ただ有翼人種は獣性が強い一方で、執着も強い生き物だった。寄り添う伴侶も愛情を注ぐ子も失われた未来に絶望して、獣性を手放した者も多かった。  女性性の個体が生まれなくなって五十年が過ぎようという頃、獣性を保ち続けてきた有翼人種の貴族の間で、ようやく合意ができた。  彼らは子どもの女精に希望を託した。幼い女精を精霊界からさらってくると、精霊の生きる環境に近い保護領で、妹として大切に育てた。自らの血を少しずつ食事に混ぜることで、獣性への拒絶反応を起こさないように慣らした。  そしてこれが大事なことだが、精霊は個体ではなく共同体の生き物だ。有翼人種のように番いとなることはなく、兄弟と体をつなげ合うことで安息を得る。他の個体と自分が違うと気づくと精霊は恐慌状態に陥り、命を落としてしまうこともあった。  その精霊の特質があったために、合意までずいぶん時間がかかってしまったのだった。激しい引っ張り合いの末、種族ごと滅びるよりはと彼らは妥協することにした。一月に一度は保護領へ他の有翼人種を招いて、女精に触れさせることにした。  けれど当然それは有翼人種たちの本意ではなく……合意をねじまげている有翼人種ももちろん、いるのだった。 (にいさまは私がお嫌いなのかな)  イリューシャは今年十六歳になる。彼女が精霊界から連れてきた女精であることを、ダミアは他の有翼人種たちに隠し続けてきた。 (にいさまみたいに綺麗な翼が生えてないから? みんなみたいに、ふっと水や風に溶けられないから……)  成長するにつれ、イリューシャは自分がわからなくなった。無性たちは常に自然の中で過ごすのを好むが、ダミアはイリューシャを外に出すのも嫌がった。どうしても外に出さなければいけないときは無性たちと同じように、髪も肌も隠れるローブを着せて、決して目を離さなかった。  けれど居館の中では銀糸で縫い取りのされたサテンドレスをまとわせて、肉が食べられないイリューシャのために、遠方から取り寄せた豆の油を惜しげもなく使った食事を取らせた。  そういう特別扱いは、女精の本性で不安と感じてしまう。イリューシャは次々と自然に還っていく無性たちと同じようになれないのが悲しかった。  その日、ダミアはイリューシャとお茶を飲んだ後、隣の保護領へ出かけていた。 「少し」  イリューシャは夕食の水を取ってこようと、無性たちの目を盗んで居館を抜け出した。  ちょうど夕陽が落ちる頃、湖は赤く染まり、血を落としたように見えた。  イリューシャは血が苦手だった。自分の血を見るだけでも失神してしまう。血の匂いも苦手で、それで肉や魚が食べられない。  けれど数日前、イリューシャは初潮というものを迎えた。男女の区別がない無性にはそんなものはない。イリューシャは怯えて、ダミアには伝えないでほしいと頼んだのに、無性たちはイリューシャのどんな変化も事細かく報告するように命じられていて、隠せなかった。  ダミアの喜びようは大変なものだった。館中を花で飾り、普段は冷淡に接する無性たちにも衣装や食事を与えた。もちろんイリューシャの床には毎日腕いっぱいの花を届けて、殊更栄養のつくものを食べさせようとした。  今日はようやく血が止まり、起き上がって無性たちと食事の用意や洗濯ができると喜んだ。けれどダミアは、もうイリューシャはそんな雑事はやらなくていいと言う。体をよく温めておいて、たくさん食事を取り、花やハーブを摘んでおいでと言う。  湖のほとりで水桶を抱えたままうずくまって、イリューシャはぽろっと涙をこぼした。 「私はみんなとおんなじがいい……」  何度もダミアに告げて、優しく受け流された言葉を繰り返す。  ダミアがたくさんの無性と広い領地を持つ貴族であることは知っている。けれど一方では義務も大きく、精霊界から妖獣が迷い込んだら、領主であるダミア自らが戦って駆逐している。  何か手伝いたいのに、自分は血も鉄も苦手で、ダミアの役に立つことができない。  膝を抱えて途方に暮れたイリューシャの前で、とぷん、と水がうごめいた。  いつしか空は紺色に染まり、空気は痛いくらいに澄み切っていた。  湖の中から青い蝶が飛び立つ。蝶はなぐさめるようにひらひらとイリューシャの周りを飛び回る。  生き物の気配に囲まれていると、イリューシャは精霊の本性を思い出す。うずうずしてきて、立ち上がるなり軽やかに踊り始める。  青い蝶は無数に増えていた。イリューシャの袖や裾のように、彼女の周りを飾る。きゃっきゃっとイリューシャが笑うと、それに応えるように鱗粉をこぼした。  大気に祝福された精霊のダンスは、唐突に途切れた。上空から、イリューシャの元に大きな鳥が舞い降りたから。 「にいさま!」  空から降りてくる人影に、イリューシャは大好きな兄が帰ってきたのだと思った。弾けるような笑顔で、空に向かって両手を広げる。  けれど近づいたとき、強い血の匂いを感じた。反射的に身を竦めたイリューシャを、その人影はすくいあげるように抱き上げる。 「……そう呼ばれるのは俺のはずだった」  短い黒髪に金色の瞳。ダミアに目鼻立ちはよく似ているが、有翼人種が自らの血を混ぜて鍛える、黄金の剣のような鋭いまなざしをしていた。  にいさまじゃない。イリューシャが気づいたとき、青年に深く口づけられていた。  ダミアのするように、優しくなだめるようなキスとは違う。イリューシャの口腔内を蹂躙して、喉が渇いているようにイリューシャの顎からこぼれた唾液もなめとっていく。 「返してもらうぞ、ダミア」  そう言って、青年はイリューシャを抱いたまま空へ飛び立った。
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