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プロローグ
世界はいつだって突然だ。
それは突然のはじまりかもしれないし突然の終わりかもしれない。それがどちらだったか分かるのは、いつだってかなり時間が経った後のことなのだ。
私たちはいつも後になってから突然の出来事の意味を知る。もしもその時に気付いていたら違う結末が迎えられたかもしれない。もしもその時に気付いていたら無駄な期待をせずに済んだかもしれない。私たちはどうしてこうも不器用にしか生きられないのだろう。それともそれは私だけなのだろうか。
例えばこんな話を友人としていた。
人間にはそれぞれあらかじめ定められた幸福と不幸の分量が決められていて、それは正確に半分ずつである。どんな人間も幸福だけに偏ったり、あるいは不幸しかない状況に陥ったりすることはない。
果たしてそれは本当だろうか?
幸福に満たされている人は自身への戒めのためにそう考えるかもしれないし、不幸だらけの人は心が折れないように、そんな風に希望を持ち続けるかもしれない。
仮に不幸だらけの人が不幸なままその人生の幕を下ろした時、その人は不幸以外の何ものでもなかったのではないだろうか。私はそう思う。それなのに人生のうちの半分は幸福だったなんてとても信じられない。
しかし友人はこともなげにこう言った。
「不幸だらけだったその人の人生も間違いなく半分は幸福だったに違いないんだよ。不幸だと思うのは、それまでの人生のうちの半分が幸福だったということに、その人が気付けなかっただけなんだよ。つまりその人の不幸は、そういった事実に気付けなかったことなんだ」
幸福だと気付けない幸福などあるのだろうか。
幸福だと気付かない幸福などあってもいいのだろうか。
それは本当に幸福だと呼べるのだろうか。
私は見事に咲き誇っている早咲きの桜をコンビニの駐車場から見上げながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
不意に背中をつつかれて振り返る。背中をつついた人物は、両手に持ったカフェラテの片方を私に差し出してきた。
「ああ、ありがとう」
私は少し不自然に沈黙した後で控えめに礼を言った。私は要らないと言ったのに、気を遣ってくれたのだろうか。あるいは気まずかったのか。彼女は自分の分だけでなく私の分のドリンクも買ってきたようだ。
彼女の後方にどうにもぎこちない動きをしている車が見えた。駐車場に入れようとして苦労しているらしい。時期的に免許を取りたての学生あたりだろうか。運転席は光が反射していてよく見えなかったが、その不慣れな動きにしばらく視線を奪われる。ドライバーも緊張しているのかもしれないけれど、見ているこちらもその緊張に引っ張られそうになる。
「何を見てたの?」
「え? ああ、うん……桜」
私は彼女の言葉に意識を引き戻された。一瞬だけ彼女が私の視線の先にあるもの、車庫入れに苦労している車のことを尋ねたのかと思ったが、すぐにそうではないことに気付いた。彼女の視線が私の後方にある桜の方を向いていたからだ。
「さみっ」
彼女は誰にともなくそう言うと、持っていたカフェラテを口に運んだ。春先とはいえ気温はまだ低い。寒がりの私などは上着を羽織っていなければとても外出できない。受け取ったカフェラテの温かさが両手を通して私に暖を与えていく。時おり吹く強い風が新たな季節の到来を感じさせていた。春らしい。春とはこういう季節だ。少し乱暴で、でも嫌いになれない。
「アメリカにも桜ってあるかな?」
「あるでしょ、ワシントンが桜伐った話とか有名だし」
「そうなの?」
私は答える代わりにカフェラテを口に運んだ。喉を通り過ぎた温かさが体の中に染みわたっていく。まるで冷め切った体に火を入れていくようだ。
それきり何も言わない彼女のことが気になってふと見てみたら、彼女もカフェラテを口に運んでいるところだった。後ろではまださっきの車がぎこちない動きで車庫入れを繰り返している。かなり苦戦しているらしい。私は元のようにまた桜に視線を戻した。
それから私たちはお互い何も話すことなくただ桜を見上げていた。時々カフェラテを口に運んで。ぎこちないのは車庫入れに苦戦している車だけではなかった。思わず苦笑してしまう。
カフェラテを飲み切ったあたりが頃合いだと思った。車に戻ろうと振り返った時、それは起きた。
不意に耳をつんざくような大きなエンジン音が辺りに鳴り響いたのだ。それは本当に世界中に響き渡るかのような大きな音だった。ひどく嫌な気持ちにさせる音、人を不安にさせる音だった。
必然的に振り返る形になった私の視界に入ってきたのは、さっきからずっとぎこちない動きを繰り返していた例の車が、私たちの方に向かって真っすぐに突進してきている光景だった。
え?
その光景を目にした瞬間、私の世界から一切の音がなくなった。あんなに大きくて、あんなに人の心を不安にさせる嫌な音だったはずなのに。それだけではなかった。今私に見えているこの世界の動きもストップモーションに変わった。私はひどく一瞬でひどく長い時間、その光景を見せられていたような気がする。思うように体が動かないのが歯がゆかった。どうして動かないのかすごく不思議に思った。
そして私はとっさに彼女を突き飛ばした。
その後何が起こったのかはよく分からない。徐々に世界に音が戻ってきたけれど、誰かの叫び声も私にとっては本当に単なる音にしか聞こえなくて、叫んでいる言葉の意味はまるで理解できなかった。一時的な混乱で頭が情報をうまく処理してくれない。
どうやら私は倒れ込んでしまったようだ。体は言うことを聞いてくれなかった。
誰かが駆け寄ってきた。父さんだろうか、母さんだろうか。私は一体どうなってしまったのだろう。彼女は一体どうなってしまったのだろう。
また誰かの声がした。今度は私にも理解できた。
「救急車! 車の下に女の子がいる!」
やがて私は薄れゆく意識の中で遠くから聞こえてくる救急車のサイレン音を聞いたような気がする。だがそれさえももう本当に救急車のサイレン音なのかどうかも分からない。私はすごい速度で世界に置いてきぼりにされていく。
ほらね、世界はいつだって突然だ。
これは始まりだろうか。それとも終わりだろうか。
きっとずっと後になってから私はこれがどちらだったのか知ることになるんだ。
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