五月1

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五月1

 春が嫌いだった。  いつからだろう。いつからわたしは春が嫌いになってしまったんだろう。どうして春が嫌いになってしまったんだろう。いつからかもどうしてかも思い出せない。  別れが多くて寂しい季節だから、なんていうどこかで聞いたことがあるような理由じゃなかったように思う。お姉ちゃんならともかく、そんなセンチメンタルな理由はわたしには似合わない。  とにかくわたしは春が嫌いだった。だから初夏に差し掛かった今時分になると今年も何とか乗り切ったとほっとする。胸をなでおろす。嫌いになった理由も思い出せないのにわたしは一体何にほっとしているのだろう。  わたしが事故に遭ったのは今から二カ月くらい前のことだ。  わたしは中学卒業後、単身渡米することになっていた。  出発の日、両親の車で空港まで送ってもらっていたわたしは、途中で寄ったコンビニの駐車場で事故に遭った。わたしはその時のことをよく覚えていない。  ひどい事故だったそうだ。どうにか一命をとりとめたわたしだったが、医者の話では、その時の状態からすれば、ほんの二カ月程度で日常生活に戻れるようなレベルのけがじゃなかったそうだ。むしろそんな短期間でこれだけ回復したことは奇跡らしい。  だが医者はこうも言った。 「言いにくいことですが、もう以前の様にバスケをすることはできないでしょう」  わたしの体のどこがどうなってしまったのかは分からない。でもわたしの脚はバスケのような激しい運動には耐えられなくなってしまったらしい。  信じられなかった。今だって何の痛みもないし、普通に何不自由なく動かせてもいる。どうして医者はそんなことを言うんだろう。わたしにはまるで分からなかった。でもそれが現実らしい。周りの誰もがわたしに気を遣ってくれた。でも実感のないわたしには、それはどうしても受け入れることのできない現実だった。  アメリカへはバスケの武者修行のために行く予定だった。そう決めたのは、中学最後の大会でライバル校に負けたことが一番の理由だ。それまで順当に勝ち進んでいたわたしたちは、当然の様に決勝戦でライバル校と対戦した。その試合でわたしたちは、およそ決勝戦とは思えないほどのスコアで完膚なきまでに大敗した。実力の差は明らかだった。  二度と思い出したくないほどの敗戦の屈辱が、このままじゃ駄目だということをわたしに教えた。だからわたしは単身アメリカに渡り、武者修行することを決意した。  両親を説得するための方策はいろいろ考えていたのに、拍子抜けするほど呆気なく両親はわたしのアメリカ行きを許してくれた。高校への進学じゃなくバスケの修行のために海を渡ることを選んだわたしの決意を尊重してくれたんだろうか。いや、そうじゃない。それはたぶん違うと思う。きっとあのコテンパンにやられた試合を見て、両親は現実を知ってしまったんだ。その証拠に、あの敗戦以降両親からは、わたしのバスケに対して以前ほどの熱量を感じなくなっていた。この辺りが限界だと思ったんだろう。冷めるときはこんなものなのかもしれない。わたしは両親の興味がわたしからお姉ちゃんの方に移ったことを感じていた。  小学生の頃は、一試合勝つ度に両親の喜びが大きなものになっていくことを肌で感じていた。勝利の度に笑顔が増えていった。ちゃんとわたしのことを見て笑ってくれた。それがとてもうれしかった。だから頑張った。頑張れた。  わたしは昔から勉強が苦手で集中力だってどれだけも続かなかったけど、唯一バスケだけは熱中できたし、人よりも上手にできた。上手にできたから熱中することができたのかもしれない。練習は苦ではなかった。楽しかった。だがそれよりも、もっと両親に笑ってほしかった。わたしのことを見てほしかった。  お姉ちゃんは勉強でもスポーツでも何でもそれなりにできる人だったけど、どれもわたしのバスケのように全国を狙えるようなレベルじゃなかった。バスケだけはわたしの方が上手い。バスケだけはお姉ちゃんに勝てる。全国を狙える可能性があったから両親もあんなに力が入っていたんだと思う。  逆に言えば、お姉ちゃんと違ってわたしにはバスケしかなかった。それが唯一のわたしが生きている証だった。唯一わたしが自分はここにいると両親に対して訴えることのできるものだった。  でもわたしは、その唯一のわたしのものであるはずのバスケをすることがもう二度と叶わないのだという。笑っちゃうな。どこも痛くないのに。脚だって普通に動かせるのに。何かの間違いじゃないんかな。  当然アメリカ行きは白紙になった。バスケができないわたしにはアメリカへ行く理由がない。当たり前だ。たとえ武者修行の他に何か別の理由があったとしても、それが同じように認められるわけじゃない。それを言う気もない。しかし、だからといって今さら高校に進学できるはずもない。わたしは気の遠くなるような長い時間、病院のベッドの上で自分に問い続けた。自分は一体これからどうすればいいんだろうかと。  救いの神は予期せぬ形で現れた。  わたしが行くはずだったアメリカの受け入れ先が「毎日ただベッドの上でじっとしているだけなんだったら一度来てみてはどうかしら」と声を掛けてくれたのだ。  受け入れ先といってもバスケは全く関係のない引っ越し先のことで、そこのオーナーは日本人だった。気に掛けていてくれたことがうれしい。そこにはわたしの他にもわたしと同年代の子が何人か住んでいるらしい。単なるアパートというよりもシェアハウスと言った方がイメージ的に近いかも。実際に行ったことがないので、わたしもよくは分からないけど。  バスケができなくなったわたしがアメリカへ行く意味はもうほぼほぼなかったけど、それでも日本でただ息を潜めてじっとしているよりはましだと思った。それにわたしはできるだけ遠くへ行きたかった。わたしを追いかけてくる全てのことを置き去りにしてしまいたかった。だからわたしはその申し出を受け入れることにした。  問題は両親だ。ちゃんとした理由もなく渡米するわたしを素直に送り出してくれるとは思えない。独断で渡米するわけにもいかない。資金的なものは自分だけではどうにもならない。わたしは当初話した時以上の強い気持ちで両親に頭を下げた。  両親は驚くほどあっさりと了承してくれた。自分たちの娘が心配じゃないんだろうかと逆に不安になる。もしかしたら両親は、もうわたしへの興味を一切なくしてしまったのかもしれない。そんな風にすら思えるほど両親の態度は淡々としたものだった。でもその方が良かった。いろいろと変に気を遣われるよりはその方が楽でいられた。当時のわたしは両親も含め全ての者を置き去りにしてしまいたかったのだから。  そうしてわたしは渡米した。  いざ渡米してみると、不思議な言い方だけど、わたしの心の中は空虚な思いで満たされた。ホームシックなんかになったりはしなかったけど、それでも日本にいた頃の自分に思いを馳せてみることはあった。  そこであることに気付いて笑ってしまう。わたしには笑顔で思い出せる思い出が何ひとつなかったんだ。こういうのを皮肉なものだなんて言うんかな。思い出はいろいろあったけどどれも笑えない。記憶の海の中で美化されてもいない。本当にどれも全部笑えない思い出ばかりだ。そして最終的には、いつもあの事故の場面にたどり着く。  あの時……。  いや、やめよう。考えても今さら仕方のないことだし。 「何を見てるの?」  不意に掛けられた声に振り返ると、加奈子さんが微笑んでいた。  アメリカでのわたしの身元引受人。シェアハウスの管理人。それから英会話の先生。考えれば他にもまだ肩書きは出てきそうだったけど、取りあえずこのくらいでも十分伝わったと思うからこれ以上考えるのはやめる。 「この木、何か見たことあるような気がして。何の木だったっけと思って」 「うん? ああ、それはね、桜だよ」  桜……。 「そっか、桜か。わたし、木の種類とか全然分からんから」 「大丈夫。そんなの分からなくても生きてけるよ。それに歳を取ったら分かるようになるかもしれない」  そんなもんだろうか。わたしはもう一度桜の木を見上げた。  もちろん今は葉桜になっていて花は付いていない。花の付いていない桜を桜だと分かる人間はどのくらいいるんだろうか。大人じゃなく、わたしと同い年くらいの人間で。  かつてのチームメイトを思い出してみる。うん、分かりそうなのは一人もいないな。 「どう、少しはこっちの生活に慣れた?」 「はい、と言いたいところですけど、まだ来たばっかりで分からんことだらけというのが正直なところです」 「すぐに慣れると思うけどね」 「ほんとですか? だったらいいんだけど」  加奈子さんは「大丈夫、大丈夫」と言って笑った。  加奈子さんは、わたしを安心させるためなのかそう言ってくれるけど、わたしにはそんなに簡単に慣れるとはとても思えなかった。実際まだシェアハウスの近所にしか出かけたことはないし出かけられない。生活に必要なものを買いそろえようとしても、それを売ってる店がどこにあるのかも分からない。  空港まで加奈子さんが迎えに来てくれた時に、車で近所をひと回りしていろいろ説明してくれたんだけど、一回で全部を覚えられるほどわたしの頭は優秀ではなかった。だから今はちょこちょこと出掛けては必要なものを買いそろえていくという毎日だ。  でも街へ出るのには勇気がいる。外国人だらけの雑踏に踏み込んでいくのはひどく勇気のいることなんだ。背の高い彼らに気圧される。人込みに飲み込まれて溺れそうになる。毎回自分でも驚くくらい決死の覚悟だ。  たぶん加奈子さんに訊けば、どこに行けば何が買えるのかは丁寧に教えてくれるんだろう。でも図太いわたしでもさすがにそう何度もは訊けない。もう少し気兼ねなく何でも訊くことのできる友達がいれば助かるんだけど外国ではそうもいかない。桜の木がどれかも分からないようなかつてのチームメイトでも、一人くらいは無理やり連れてくればよかったかな。 「ちょっとドラッグストアに寄るんだけど、ひよりちゃんも一緒にどう?」  ラッキー。わたしはその言葉に心の中でガッツポーズをした。ちょうどドラッグストアに寄りたかったんだ。でもどこにあるのか分からんかったんよね。加奈子さん、ナイスタイミングです。  わたしは加奈子さんの車に便乗させてもらった。  店内に入るとわたしは柔軟剤の並べてある棚を探した。今使っている柔軟剤は近所のスーパーで買ったものだけど、従来使っていたものじゃなかったから買い直そうと前から考えていたんだ。  柔軟剤を探して何列目かの通路を通りかけたときに急に動悸が激しくなった。一瞬で息ができなくなり、わたしはその場にしゃがみこんだ。  駄目だ。ひどく息苦しい。上手く息ができない。どうして?  異変に気付いた他の客がわたしに「大丈夫か?」、「救急車を呼んだ方がいいか?」と尋ねてくる。大丈夫じゃなかったけど救急車はやめてほしい。そう伝えようとしたが言葉にならない。わたしはパニクった。どうすればいいんだろう。 「ひよりちゃん!」  わたしを見つけた加奈子さんが走り寄ってきた。そしてわたしの様子を見ると、「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ行ってしまった。次に戻ってきた時、加奈子さんはレジ袋を手に持っていた。そのレジ袋をわたしの前に差し出す。 「袋の中に息を吐いて。ゆっくりと。深呼吸する感じで」  わたしは言われるままにした。何度か繰り返すと気持ちも落ち着き呼吸も問題なくできるようになった。  ドラッグストアから帰ってきた後で「過呼吸だね」と加奈子さんが言った。思い当たる節を訊かれたが、わたしには何も心当たりはなかった。心当たりがなければ気を付けようがない。でも、それでも気を付けるように言われた。  加奈子さんはとても優秀な人だ。もちろん彼女をわたしに紹介してくれた人から、そうだとは聞かされていたけど、実際に会ってみると自分が思っていたよりも何倍も優秀な人だということが分かった。  まずその知識量に驚かされた。五カ国語を話すだけでもすごいことなのに、それ以外のことでもあらゆる分野のことを知っていた。お姉ちゃんを上位変換したような人だ。今日だって加奈子さんがいなければ、わたしは今ごろどうなっていたか分からない。  東大在学中に世界中を放浪し、何か感じるものがあったのか、その途上に寄ったこのアメリカ西海岸でそのまま暮らし始めたんだという。今ではこっちで若者相手のいろんな活動をしているんだそうだ。大胆過ぎる。大学は恐らく除籍になっているはずだと言っていた。  やはり東大レベルともなると考え方も行動力もわたしのような凡人とは全然違う。どうして世界中を放浪していたのかは知らんけど、到底わたしにはまねすることのできない行動力と決断力だった。  前に加奈子さんにそう言ったら「ひよりちゃんだってここにこうして来てるじゃない。それってすごい行動力と決断力だなって私は思うけどな」と言って笑っていた。  わたしは自室に戻るとベッドの上に腰を下ろした。一つため息を吐く。ため息を吐くと幸せが逃げるからやめろと誰かに教えられたけど、今ごろわたしの幸せはどこまで逃げていってしまっているだろうか。構わずもう一つため息を吐く。  実はあの事故以降、わたしの周りで変わってしまったのは両親や周りの人間の態度だけじゃなかった。もう一つある。そのことはまだ誰にも言ってない。なぜだか言っちゃいけない気がしたから。それに言ったところで誰も信じてくれないだろうとも思っている。それは何か?  実はあの事故以来、わたしの世界からは色が消えてしまった。  今この世界は、わたしにはモノトーンに見えている。  そう、それは比喩でも何でもなく文字通り白黒に見えているんだ。
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