五月3

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五月3

「楽しそう。でも私やったことないよ」 「大丈夫だって。うちも遊びでしかやったことないから」  談話室にはスーとマリがいた。  時刻はお昼の一時過ぎ。この時間に二人が揃っていることは珍しい。二人は談話室の窓際の席に腰掛けて何やら楽しそうに話していた。 「あ、いいところに来た。ヒヨもやろうぜ」  今わたしに右手を挙げて話しかけてきた金髪ピアスがスー。その隣でニコニコしながらわたしを見ている黒髪がマリだ。二人はわたしと同じここホグワーツ学園の住人だ。わたしも最近まで知らんかったけど、どうもここはそういう名称らしい。  スーに尋ねたら「そのうち魔法が使えるようになるんじゃね」と意味不明なことを言っていた。あとでマリが有名な映画に出てくる学園の名前だと教えてくれたけど、バスケしかしてこなかったわたしは、そう説明されてもまるで分からなかった。  どうして色のない世界でスーが金髪だと分かったのか。  白黒の世界の中で、なぜだか二人には色が付いていた。だからわたしはスーの髪の色が金色だと分かったんだ。色付きで見える人間は二人の他には加奈子さんだけだ。どうして彼女たちにだけ色が付いているのかは分からんけど。  二人はわたしと同い年。学校には通っていない。  スーは午前中工場で働いて、お昼を過ぎると帰ってくる。午後からは学園で加奈子さんに勉強を教わっている。  マリは食堂で働いていて毎日十時ごろに出掛けて二時過ぎに帰ってくる。帰ってくるとスーと同じように加奈子さんに勉強を教わっている。マリがスーに合流する形だ。だから今の時間に二人が一緒にいることは珍しい。今日は食堂が休みなんかな。  こっちに来るまで全然知らんかったけど、アメリカの義務教育は日本と違って高校卒業までと決められているらしい。それでもいろんな事情で卒業できない子どももいるから高校卒業程度認定試験というのがあって、二人はそれを受けるために加奈子さんから勉強を教わっている。  それってつまり二人には普通に高校に通えない事情があるってことなんだけど、もちろんわたしはそこには触れていない。二人だっていろいろ詮索されるのは嫌だろうし。  ちなみに二人の働き口は加奈子さんの紹介によるものだ。  ここにやって来た当初、加奈子さんに二人を紹介されたとき、わたしは二人が働いてると聞かされて正直驚いた。働きながら勉強する人なんて今まで周りにいなかったから純粋にどうしてだろうと疑問に思った。きっとそれが顔に出てたんだろう。わたしはスーに突っかかられた。 「おまえさあ、今うちらのこと見下したろ?」 「は? 別にそんなこと思ってないけど」 「世の中のやつがおまえみたいに何から何まで全部親にしてもらってるやつばっかじゃないんだからな。おまえの尺度でうちらを計るな。何もかも与えられてるだけのやつがうちらを下に見るな。そういうのムカつくんだよ」 「やめなって、スー」  隣で聞いていたマリがスーをなだめる。  それはそれまでの人生で、そんな攻撃的な態度をほとんど取られたことのなかったわたしには衝撃的な言葉だった。攻撃された理由も今まで経験したことのないものだった。逆にわたしは無意識に彼女たちのことを見下していたんだろうかと自問した。  分からない。  そんなつもりがなくても相手がどう捉えるかはまた別の話だ。でも毎月決まった日に両親からお金を振り込んでもらい、そのお金で苦労することもなく生活している自分が恵まれていると思ったし、少し恥ずかしい気持ちになったのは事実だ。 「全然そんなつもりはなかったけど、もしもそんな風に見えたんなら謝るよ。ごめん。確かにわたしはあんたが言うように世の中のことを何も知らんからさ、この国がどういうところかとかも。だからそういうの、わたしに教えてよ」 「何でうちが教えなきゃなんねーんだよ」 「教えてあげようよ。ね、スー先生」  マリが収めようとする。 「誰が先生だよ」  そう言いながらもスーはまんざらでもない様子だった。  マリはスーの扱いをよく心得ているらしい。それを知ってたから加奈子さんも何も言わずにただ見てたんだろうか。 「よろしくね。私のママは日本人なの。だから私には半分日本人の血が流れてるんだ。あなたとは仲良くできそう」  そう言ってマリは右手を差し出してきた。「ほら、スーも」とマリがスーを促す。渋々手を出してきたスーだったが、もう最初の様な攻撃的な目はしていなかった。わたしは何とかアメリカで最初の友人を得たらしい。 「やろうぜって何を?」  わたしが訊き返すとスーは屈託のない笑顔で答えた。 「バスケ。ミニバス」  それはわたしにとっては残酷な言葉だった。ほんの一瞬だけ固まってしまったわたしに二人は気付いたろうか。  スーもマリもわたしが日本でバスケをやってたことを知らない。もちろんバスケができなくなったということも知らない。知らないから仕方ない。逆にわたしはスーの言葉で今のわたしがそういう鋭利な刃物のような言葉にもたいして動揺することなく対応できるようになっていたことを知った。今の自分の境遇に慣れたということだろう。 「それは遠慮しとくよ」 「何でだよ。やろうぜ。うちだって遊びでしかやったことないから問題ないって。みんな同じ条件だ。下手でも笑ったりしねーよ」  そう言うことじゃないんだけどな。苦笑するわたしにスーが追い打ちをかける。 「ヒヨ、いい言葉を教えてやろう。世の中迷ったり行き詰まったりした時は、この言葉を思い出すといい。ギブ・イット・ア・ショット!」  わたしはその言葉を聞いた瞬間、心の中に懐かしさと淡い痛みが広がっていくのを感じた。まさかアメリカに来てまでその言葉を聞くことになるとは。  ギブ・イット・ア・ショット。スーが言った言葉を反芻する。 「ほら、行こうぜ」  そう言ってスーは強引にわたしの肩に手を回すと無理やり階下に引っ張っていった。  学園の裏手には申し訳程度の広場がある。そこにバスケットゴールが設置されているのは知っていた。最初にここを訪れた時に加奈子さんにひと通り案内してもらったからだ。でもわたしにはもう関係ない場所だと思っていた。  人は本当に慣れていくんだ。バスケットゴールを見ても以前ほど悲しい気持ちにならなくなっていたことがそれを証明していた。わたしはそんな心の変化にどこかで少しほっとして、どこかで少し寂しさを覚えていた。夢の残骸しかない場所に残っていた未練はこうして少しずつ跡形もなくなるまで消えていくんだろうか。  広場に降りるとスーはどこからかバスケットボールを取ってきた。いや、降りてくる前から持ってたんだっけ。そんな気もする。  軽い運動程度なら問題ないだろうか。  スーに強引に連れてこられたはずなのに、いつの間にかわたしの中にはバスケをやってみたいという欲望が生まれていた。欲望は一度生まれてしまうと、もう自分の力では抑え込むことのできないものに進化してしまっていた。  大丈夫だ。どこも痛くないじゃないか。  でも本当に大丈夫か? 医者はもう二度とできないと言ったぞ。後悔するぞ。  後悔だって? これ以上何を後悔するというんだ。  それもそうか。わたしにはもう後悔するようなことが何もない。全部失ってしまってるんだから、これ以上もう何もなくす心配なんかないんだ。軽くなら大丈夫だ。  そう決意して一歩踏み出したとき、わたしの目の前を左から右へ一匹の猫が横切った。白と黒の玉模様。それは我が家の飼い猫、ムーさんだった。その姿を目で追いかける。  わたしがムーさんの姿を追って視線をやったその先には、腕組みした一人の男性が立っていた。  どうして?  わたしはその男性を見た瞬間、驚きのあまり呼吸することを忘れそうになってしまう。  その男性は入江さんだった。少し恥ずかしそうに微笑む姿。日本にいた頃とまるで変わらない。その姿を見てわたしは姉を思い出し、そして少しだけ胸がチクリと痛む。  入江さんは日本でのわたしの知り合いだ。知り合ってからもう五年以上になる。  わたしと入江さんの出会いは少し変わっていた。入江さんは家出した十歳のわたしを保護した人物なのだ。  あの日わたしは家出した後、行く当てもなく街をさまよっていた。それまでは気を張って歩いていたはずなのに、どこかの公園で一度ベンチに座ってしまうと空腹でもう立ち上がることもできなくなっていた。辺りはもうすっかり暗くなっていた。  そんなわたしの目の前にピエロの格好をした大道芸人が現れ、ジャグリングを披露してくれたのだ。小さなわたしは疲れ切っていたはずなのに、ジャグリングを見て心が躍りだした。そんな気力は残っていなかったはずなのに立ち上がって拍手していた。  そのとき不意にストロボの光がきらめきシャッター音がした。驚いてわたしが光った方を見ると、カメラを構えてファインダー越しにわたしを見ていた男性がいた。  男性はわたしに近づいてきた。目の前でしゃがみ込み、わたしと視線の高さを合わせると「いい写真が撮れた。君の写真をぜひコンクールに出したい。構わないかな?」と言った。突然のことにわたしは何が起きたのか理解できなかったけど、空腹からとっさに「ご飯を食べさせてくれたら」と答えたのだ。  今度はわたしの言葉に男性が目を丸くした。だがわたしがご飯欲しさに本当のことを話すと「なるほどよく分かった。じゃあ今からご飯を食べに行こう。それで君は俺がさっき撮った君の写真をコンクールに出すのを了解する。それで俺たちの契約は成立だ。ご飯を食べたらその後は君を家まで送っていこう。きっとご両親が心配してるはずだ。両親を心配させるのは良くない。それでいいね」と言った。  その時になるともうわたしは空腹が満たせるなら何でもいいと思っていた。そしてわたしは約束通りその男性にご飯を食べさせてもらったのだ。  その男性が入江さんだ。  後日、入江さんが撮ったわたしの写真はコンクールで金賞を取った。わたしは特集が組まれた写真専門誌で初めてその写真を見た。  そこに写っていた少女は、まるでわたしじゃないみたいに輝いていた。こんなにキラキラしてるのが、わたしな訳がない。何度も見て何度もそう思った。きっとこの人は魔法使いに違いない。わたしをわたしじゃない別のものに変えてしまう。そういう魔法が使えるんだ。そう思った。  それ以降、入江さんは頻繁にわたしの家にやって来るようになった。両親もわたしの命の恩人だからか彼には心を許していたように思う。そう考えると入江さんと姉を引き合わせたのは他ならぬわたしなんだ。もしかしたら二人の仲が親密になるのは必然だったのかもしれない。 「どうしてここにいるの?」  わたしは入江さんに駆け寄ると、きしむ心を精いっぱい動かして彼に尋ねた。 「ひよりちゃんが心配になってね。またお腹を空かせているんじゃないかと思って」 「わたしはもう子どもじゃないよ。一人でもちゃんとご飯も食べられるし、それに今は一人じゃない」 「そうか。だったらいいんだ。またたまに覗きに来るよ」  そうやってまたわたしとの距離を確認するようにぎこちなく笑う。そんな風に笑わないでください。けれど入江さんは、そのぎこちない微笑みを顔に浮かべたままわたしに背を向けた。  わたしは背中にスーとマリの視線を感じながら、去っていく入江さんの後姿をずっと見つめていた。完全に見えなくなるまで。  ねえ、入江さん。どうしてまたわたしの前に現れたの?
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