不見聞言

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 その息子がいつもの様に帰って来た。私はベッドの中で玄関の扉が閉まる音を聞いた。時刻は深夜。息子はそっと帰って来る。物静かな子。大人になった今でも変わらない。息を殺して生きている。夜の外出も、私に気付かれないよう工夫している。昼間は大概家にいて、出掛けても日暮れ前には必ず帰宅する。毎日夕飯を準備して、私と一緒に食べ、寝支度を済ましたら「おやすみ」と言って寝室へ行く。それから、時折、こっそり家を抜け出し、こうして夜半に帰って来る。  母子家庭だというのに、息子は未だに働いてくれない。生活は苦しいけれど、息子は家事をよくしてくれるし、それに息子が子供の頃、私が散々ぶったり(なじ)ったりした所為で引っ込み思案になったのかも知れないから、「働け」と強く言えない。  そう言えば、獣の一人に、今の息子に似た男がいた。典型的なヒモで、私が喰わせてあげていた。彼も大人しく、私が酷く怒っても、困った様に笑ってばかりいた。若しかして、息子は彼の子供?  息子が寝室の扉を閉める音を聞いてから、私はベッドから抜け出た。トイレに行くフリをして、息子の部屋の前を通る。起きている気配はない。家は静かだった。誰の声もしない。私の溜息だけが聞こえた。こんな夜はよく眠れない。  朝、息子が起き出して、台所へ向かう。私は少し遅れてベッドを下りる。 「おはよう」  鮭を焼いている息子に声を掛ける。 「おはよう、母さん」  深夜に出掛けた日の息子は、特に機嫌が良い。今朝の天気と同じ、晴れ晴れと、朝日に照らされながら天使の様な笑顔を浮かべている。親バカだけれど、この笑顔にときめく女は沢山いるだろうと思う。無垢で、あどけなく、放っておけない笑顔。  そういった男と暮らした事がある。美しい笑顔を見せる男。けど、彼が上機嫌に笑うのは、決まって浮気した後だった。息子はその男の気質を受け継いだのだろうか? 「いってらっしゃい、母さん」  息子に見送られて仕事に出る。私はホッとしていた。日中、息子は殆ど家から出ない。だから罪悪感を抱く必要がない。と言っても、最近は罪悪感も薄らいでいる。こんな生活にも慣れたのだろう。心配だけは膨らでいくけれど、仕事に熱中している間はそれも忘れられる。私は仕事熱心で有名だった。昔みたいに男漁りもしない。そもそも、年老いた私に言い寄る男はもういない。可愛いのは息子だけ。あの子の為に私は働いている。  夕方、仕事を終え帰宅すると、リビングのソファに寝転んだ儘、息子が言った。 「おかえり、母さん」 「ただいま」  そして息子は徐に身体を起こし、台所に立って、夕食の支度を始めた。私は鞄を下ろしながらその背中を見守った。スッカリ広くなった背中。いつの間に私より背が高くなったのか。いつの間にハンバーグなんか作れるようになったのか。私は何も知らなかった。  食卓に並んだハンバーグとサラダとトウモロコシのスープ。茶碗によそった白米が湯気を立てている。 「いただこうよ、母さん」 「そうね。いただきます」  息子と向い合せに座って、箸を取って、モソモソとハンバーグを食べる。息子の手作り料理を食べられて、私は幸せな母親だと思う。 「今日は何をしてたの?」  私が毎日する質問。息子は笑顔で応える。 「今日は思い切って本棚の後ろを掃除したよ。埃がかなり溜まってた。あんなに何処から飛んで来るんだろうね」 「絨毯が古いのがいけないのね、きっと」 「そっか。けど、もう綺麗になったよ。これで少しは空気も良くなったんじゃないかな。それから、そう、映画を見たよ。古い映画。監督がヒッチコックの」 「へぇ。じゃあ、白黒?」 「うん。結構面白かったよ。流石はヒッチコックだね。定番のネタだけど、古典としてその定番を生んだっていう点が偉いよ」 「面白かったのなら、良かったわね」  私はニコニコとそう言った。息子が愉しそうにしていると、私もつられて笑ってしまう。 「母さんは、今日はどうだった?」  息子からそう訊いてきたから、私は次に用意していた質問を言い出せなかった。けど、言い出せなくて良かったと、つい安心してしまう。 「今日は税金関係の入力をしたの。でも、最近は何でもパソコンを使うから困っちゃって」 「母さんはデジタルが苦手だからね」  朗らかに、天使みたいに息子が笑う。私も笑い返す。本当に穏やかな性格になった。昔は大変だった。息子が学生の頃は、荒れに荒れていた。あらゆる暴言を吐き、手当たり次第に物を投げた。怒りに身を任せていた。私も泣き叫んだ。息子の目が怖ろしかった。あの目、怒りの目。見覚えのある目。私を殴る男と同じ目だ。彼も怒りながら泣いていた。あの男の血が、息子の中にも濃く流れているのだろうか? 「そうそう、職場の人から聞いたんだけどね、近所の公園の花壇、あるでしょう?あそこの花が綺麗だそうよ」  黒い沁みみたいな不安を拭おうと、私は話題を変えた。 「へぇ」  息子がハンバーグを口に運ぶ。白い歯が肉を噛んでいる。 「去年は全然勢いがなかったのに、今年は盛っているんですって」 「何か変わったのかな?今度見に行こうか」 「そうね」  私はサラダを噛んだ。青い葉がパリパリと割れる。トマトが口の中で破裂するのを感じながら、私は花壇の光景を思い浮かべる。鮮やかな花の数々。よく耕された土。  私は突然心配になった。 「ミキサーの調子はどう?」  いけない、と考える前に、言葉が口を衝いて出た。ミキサー。私が息子に買い与えた物の一つ。それは台所にはない。ズット息子の部屋にある。 「問題ないよ。どうして?」  息子が笑う。けど、目の色が違う。 「いいえ、何でも無いの。暫く見てないから、ちょっと訊いただけ」 「そっか」  目の色が戻る。私は微笑んでみせた。けど、動悸が激しくて、巧く笑えなかった。  息子の私物について、触れてはいけない。息子の部屋には、入ってはいけない。息子が荒れていた頃、つまり学生の頃、喧嘩をして、腹いせに、息子が学校に行った後、息子の私物を無断で捨ててやろうと部屋に入った事がある。埃っぽい、散らかった部屋だった。やたらに育った観葉植物が床を占拠し、机の上には切り刻まれたコピー用紙が山の様に積もっていた。紙には裸の女が印刷されていた。息子がやったのだろう、机にはハサミも転がっていた。女達は、皆、胴体だけになっていた。首と手足はゴミ箱に埋められていた。  私はあれから一度も息子の部屋に入っていない。 「生ゴミは溜めておかないのよ。それから、ビニールは洗ってから捨ててね」  私は少し大胆になってそう言った。私は味方だと教えたかった。母親なんですもの。 「うん。判ったよ、母さん」  息子は平然と頷いた。こういう男を私は知っている。全身で嘘を吐く男を。平気で人を騙して、何とも思わない男。彼の遺伝子が、息子の心を形作っているの?  私がどんな質問をしても、息子は正直に応えてくれない。昼間、本当は何をしているの?常識的な掃除をして、映画を見ただけでは、とても時間を潰せない。他に何をしているの?あのゴミの量、あなたは一体、何処を掃除しているの? 「お金は足りてる?多くはあげられないけど、足りなくなったら言うのよ」 「うん」  息子が肉を飲み込みながら頷く。私はお小遣いの使い道について、質問した事は一度もない。月に一、二度無心される程度だが、その都度従順に渡している。あのお金は何処に消えていくのだろう?息子は昼食もロクに食べていない様だし、服や靴も増えていない。貯めている様子もない。家にお酒は置いていないのに、時々息子からアルコールの匂いがする事と、何か関係があるのかしら?  私は質問を次々飲み込んだ。窒息しそうだ。このハンバーグも、喉を通る気がしない。 「今日の夕食はどう?母さん」  息子が訊いてくる。不意に、私の頭には料理が得意な男と付き合った記憶がよみがえった。彼は料理が好きで、皿洗いが嫌いで、料理より私を束縛する事に熱心だった。  私は機械みたいに箸を動かして、デミグラスソースに浸かった肉を口に入れた。 「美味しいわ。いつもありがとう」  私がそう応えると、息子は天使みたいに笑った。  食事を終えると、息子がシンクに皿を持って行く。けど、皿洗いは絶対に息子にさせない。どんなに疲れていても、これは私の仕事だ。  息子は食事を済ますと、すぐ歯磨きをする。それもキッカリニ十分と決まっている。歯磨きが済むと風呂に入る。これもキッカリニ十分。時計みたいに正確だ。 「おやすみ、母さん」  寝間着に着替えた息子が、リビングに立ち寄って挨拶する。私はソファから立ち上がって、笑顔で応える。 「おやすみ」  心底から言う。おやすみ。今夜はちゃんと寝てね。私の息子。深夜に起き出さないでね。どうか、グッスリ眠って頂戴。 「おやすみ」  私がもう一度言うと、息子は軽く手を振って、自分の部屋の扉を閉めた。
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