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午前の雨で少し湿ったバス停の木製の椅子は、座るとじわじわと水分がズボンを貫通して不愉快だった。天気はまだ悪くて、遠くではゴロゴロと雷雨の鳴き声が聞こえた。これから、また激しく雨が降るのだろう。雨は嫌いだ。
ここ数年の天気は心地よくも不気味なものだった。雲一つなくて、青々した空には鳥がさえずり、植物たちの讃美歌が聞こえてきそうな程だった。随分と昔の人たちは、特別な日のことをハレの日と呼んだらしい。そう呼ばれるほど、晴れは幸せで、神聖で、それ自体に特別な意味のあるモノだったんだろう。僕にはもう分からない。
「それ、売らないでいいのかい?」
黒のシルクハットを目深に被った男は、真っ黒のスーツに黒のズボン、靴下から尖った革靴まで黒で統一されていて、僕の隣に立つと、僕の影のように見えた。
「もう、いいんだ。気付いたんだ。」
久々に放った自分の声は少し枯れてて、また僕はいつのまにか自分が年老いたことを感じた。そういえば、最後に人と話したのはいつだったか。
「高く売れるよ。生活、困ってるんだろう。ワタシとしては、もっと困ってもらった方が助かるけどね。」
目の前の男は、無感情に土足で人の心を踏み荒らしたが、いまやそれも心地よかった。
しばらくすると、バスが来た。ブリキで作られた古いバスは、頭の先からお尻まで茶色に包まれていて、ここでもまた、僕は時間の経過をありありと感じさせられた。
軋みながら開いた扉から、埃の匂いが鼻孔をつき、懐かしさが僕を拒絶しているようだった。今さら都合がいいのは分かっていた。自らの身勝手さも理解していたつもりだった。それでも少し、躊躇いが僕の足を止めた。
「やっぱりやめようよ。ここのみんなは君が必要だし、君にもここが必要なはずさ。」
立ち止まっていた僕の背中を、憎たらしい声が押してくれた。小さな息を吐いてバスに乗り込む。
「セキニ オスワリクダサイ」
無機質な声に促され、一番後ろから一つ前の、窓際の席に座った。少し空調が効きすぎていて、肌寒さを感じた。
どうしても僕を引き止めたいのか、黒づくめの男も続いて乗り込んだ。運転手に軽く会釈し、いや、会釈の真似をして、当たり前のように僕の隣に腰掛ける。
「人間のふりか。」
先程からの不躾な言葉に、少し言い返してやりたくなった。
「そんな! 人間様になろうなんて恐れ多いよ。それに、あんな非効率の塊、誰が好き好んでなるんだい?」
相変わらず男の言葉は神経を逆なでたが、これが最後だと思うと、すこし寂しさすら感じた。
小さな傷が無数に重なり、白んだ窓ガラスからは、月まで届くタワーと、それに群がるように並立したビルたちが佇んでいた。月まで届くタワーを除き、その他のビルは高さが統一されており、外観も、それこそ窓の大きさや位置さえも全て同じだった。周りの雨雲があの街を避けるように円を描いており、キラキラとコピー&ペーストだけでできたビルの窓ガラスが太陽の光を跳ね返していた。
「名残惜しいかい?」
こんなにも男の言葉が僕の心を揺さぶるのは、それらが完全に否定できるモノではないからだ。それでも僕の身体が埃っぽい席から離れることは全くなかった。
「別に」
言葉で強がり、意志をより強固に固めた。言葉は自分の内側から湧き出るだけではなく、一度外側に出し、自らが聞くことで心を作ることが出来るということを僕は知っていた。
外では雨脚が強くなっていたが、都心部では快晴が広がっていた。雨が薄汚れた窓ガラスを激しく叩く音が聞こえて、ここにはあの街の気候調整システムが働いていないことを感じてまた一つ心が軽くなった。
「雨だ。嫌だね。水は天敵だ。」
何の気なく男が呟いた。
「僕は雨が好きだよ」
僕も特に何も考えずに言葉を返した。
「ほお」
男は興味深そうにこちらを眺め、キィキィと固い金属音を鳴らしながら顎を軽くなでてまるで人間らしい行動をした。
「変だねぇ。機械が故障するように、人間だって濡れたら風邪をひく。なんで雨が好きなんだい。どうしてだい。」
「お前らが雨のことを嫌いだからさ」
「残念だ」
僕は外をずっと眺めていた。曇りガラスに映る自分と目があった。
雨脚は次第に強まり、大粒の雫が曇った窓を叩き続けている。不規則に、しかし一定のリズムを持ちながら鳴るその音はまるで今から始まる僕の人生のイントロのようだった。
「楽しそうだね」
隣の男は一人空想に浸る僕のことなんてお構いなしにしゃべり続ける。思えば、今日のこいつはいつもより口数が多い気がする。普段はもっと、業務的で、ただ淡々とマニュアル通りの甘言を繰り返すだけの存在だったはずだ。
「雨がビートみたいだ」
ぽつり、と呟いた後に、おしゃべりになっているのは自分も同じだということに気が付いた。
「ほお、雨が音楽みたいって意味かい。面白いねぇ」
「お前らには分かんないよ」
小馬鹿にされたように感じて少し、言い返した。
「ふーむ。確かに。音楽も、映画も、文学も、全部言っちゃえば無駄だよね。人間は賢くなりすぎた。生物は生きることそれ自体が目的だったはずなのにねぇ。衣食住に困らなくなったら、次は過度に自らを着飾って、もっと、もっとって、必要以上のモノを求め続ける。音楽なんてそれの典型さ。情報を伝えるのに、なんてまどろっこしいやり方を取るんだ人間は。君たちには言葉があるじゃないか。」
僕は目を瞑り、静かに男の言葉を聞いていた。相変わらず、雨は強く窓を叩いている。
「生物の最大の目的は繫栄だ。増えることが目的なんだ。君たちは、生まれてきたことそれ自体、生きていることこそが目的のはずなんだ。なのに、生きることが当たり前になっちゃって、生きている意味なんてモノを考え続けてエラーを起こしちゃうんだ。ココロなんて必要ないんだ。」
「その点、僕らは明確に生きている意味を与えられて生まれる。それに沿わなければ消えて、それを遂行した瞬間に悦びとともに消えれるんだ。目的ある一生と、存在しない意味を求め続けて悩み苦しみながらの一生、どっちが幸せかなんて考えなくてもわかるよ。」
ありえない話だが、僕は矢継ぎ早に話し続ける彼の言葉と言葉の合間に、聞こえないはずの息継ぎが聞こえた気がした。
「今日は、よく喋るな。」
嫌味をこめてそう言うと、彼は少し悲しそうな顔をした気がした。
目的ある一生、という言葉がやけに頭に残った。男の言葉を全て否定する気にはなれなかった。これもまた、少なからずそこにも真実はあったからだ。僕が生きていく意味とは何なのか、それは未だに分からない。僕はずっとそれを考え続けている。故郷を離れた時、全てから解放された気分になった。自分は一人で生きていて、自由で、この自由だけが僕の生きる理由だと考えていた。しかし、それは束の間の幸せに過ぎなかった。
全ての責任を投げだして、自らを縛り付けていたものを取っ払った先にあるのは、ふわふわと足元が浮くような奇妙な不快感と、再び自らの存在意義を問うという地獄の時間だった。全てを投げうって自由を手にすることは、全ての関係を絶つことと同義であり、ぽつんとただ広い空間に投げ出され、どちらが前かも分からない真っ黒な空間を漂っているようだった。
不安から逃げ出すために、その絶望を売って生計を立てた。あの街で、僕の絶望には高い値がついた。内容は何でもよかった。自らの存在意義や、この星の終わりの事、置いてきた友達の事や、両親への捨てきれない期待、目を閉じて眠りについたら最後、自分が消えてしまうのではないかと言う、笑われてしまうような杞憂でさえもお金に変わった。
一つ、また一つと暗い心を消して回った。消した、と言ってもそれも一時的なモノだった。その感情を吐き出すと、ひと時の安寧を得られた。全てが満ち足りていて、呼吸をしているだけで目標を達成したような、そんな気分に浸れた。しかし、切り離した感情はあくまで僕の心から染み出て思考と言う形になって固まった樹液みたいなもので、その根源の心を絶てたわけではない。しばらくすると、最近まで自らを苦しめていた不安が再び襲ってくる。それは一度見た時よりも黒く、大きく、邪悪に見えた。
やけに雨の音が聞こえると思ったら、隣の男は外を熱心に眺めていた。
「雨が珍しいか」
男は肩をすくめ少し驚いたようなふりをわざとらしくした。
「日本語って不思議だよね。雨を意味する言葉が僕のデータベースだけでも400以上あるんだ。何が楽しくて雨に名前なんて付けるんだろうね。」
「お前らにとっては不必要でも、人間にとっては恵の雨なんだよ」
「技術は進んだ。君たちにももう必要ないじゃないか。非効率的だよ、人間は。こんなの、ただ不快なだけじゃないか。」
男の無機質な声が少しの熱を持ったように感じた。
「そうだな」
言葉では同意をしつつ、僕の心はそっぽを向いていた。
「でも、非効率も人間だ。」
僕は知っていた。降りかかる不安をただ右へ左へと受け流すだけでは意味が無いことを。その先にある大きな絶望を。
「お前らみたいに効率的に生きられたらどれだけ楽なんだろうな。一切のノイズを消して、身に降りかかる不幸を計算して可能な限り避け続けて、得られる幸福を天秤にかけ、どれだけ自らの利になるかを考えられれば。心なんて邪魔でしかないんだ。他の何でもないこれのせいで僕は何度も僕の死を望んだ。心は僕を殺そうとしたんだ。僕はお前らの世界で言う不良品だよ。普通にもなれなくて、バグだらけで、真っすぐ歩くことも出来ないんだ。」
「それが分かっていてなんで! ・・・あの街を出るんだ」
声を荒らげる自分に驚いたように男は自らの口を押さえる。小さく金属が擦れる音が聞こえた。
「あの街で君は人気者さ。だってそうだろう誰にも生み出せないモノを生み出せるんだ。僕たちは愉しめる!君は君のココロを蝕む病気を治せる!存在意義も社会不安も将来不安も人間関係も存在不安も!未来も過去も生も死も!何もかも!君は背負いこむ必要はないんだ!あの場所こそが君のユートピアなんだ!今からでも遅くないみんなが君を待っている!君はあの街でなら、普通の人間になれるんだ!」
男は平静を装うように、夢の国へ誘うテーマパークの従業員のように、ぎこちない身振り手振りを添えて、僕を小馬鹿にしたようなわざとらしい口調でそう熱弁した。苛立ちはしなかった。ただ少し、寂しい気持ちになった。
僕の心の中に巣くう悪魔たちの名前をつらつらと羅列されても、僕の心は穏やかなままだった。それらはあの街で消えたわけではない、今も僕の中で確かに存在を叫んでいる。全ての不安を消して、普通の人間になる。それは随分と良い生き方に聞こえた。だが、僕は普通の人になりたいわけじゃなかった。僕は僕として普通に生きたいだけだった。
「不安だらけでも良いんだ。それが僕なんだ。」
あの日、一つ、また一つと不安を売り続けた。それでも、不安は消えることなく、幾度となく僕を襲い続ける。その度に僕はまた不安を売る。全てから解放され、考えることをやめて、悦に浸ることは心地良かった、ただ、自由とも言える僕の精神は空虚だった。そこで再び僕は、ふわふわと足元が浮くような奇妙な不快感を感じてやっと気が付いた。不安が僕の心を作っていたことに。不安は僕だった。
「自分がずっと嫌いだった。運動も勉強も才能が無い。人付き合いは下手。期待に応えられない。世の中には、僕の上位互換がごまんと出回ってるんだ。自分が存在する理由が分からなかったんだ。そんな不安をお前に売った。でも、存在意義の不安を売ることで僕は自分の存在をまた否定していたことに気が付けたんだ。いや、僕は教えてもらったのかな。」
「誰に」
男は苛立った様子でその怒りの矛先を探していた。その声は明らかな熱を持っていた。
「お前だよ。」
目線は相変わらず、無数の小さな傷のついた窓ガラスを見つめていた。灰色の道路は大粒の雨に叩かれ続けているが、何ともない顔をしていた。
男が今どんな表情をしているのかが気になったが、見ることは出来なかった。見ることをしようとは思えなかった。
この不安に価値を付けてもらった。名前を付けてもらった。雁字搦めにされて身動きが取れなくなっていた僕を、一度その場から引きずり出してくれた。
そこに僕への同情などは無く、ただこいつは自らの利益のための道具としてしか僕を見てなかったのかもしれない。それでも、僕には初めて誰かに必要とされたと感じた。君が持つそれは価値のあるモノで、それは君だけのモノなんだよ、と。
「・・・」
男は沈黙して窓の外を眺めていた。
雨脚は弱まることを知らない。
「ツギハ ●●町 ●●町」
無機質な機械音から聞こえたその町の名前は、無感情な声とは裏腹にどこか温かさを感じさせた。
茶色く古びた停車ボタンを押すと、バスは小さく悲鳴をあげながら緩やかに減速を始めた。
軋む扉が開いて、僕を外に送り出した。
「・・・」
男は降車口に立ち、依然として黙り込んでいた。
「じゃあ、元気でな」
元気、という言葉がこの男に当てはまらないことは知っていたが、最後に皮肉を込めてそういった。
「非効率だよ」
男は文字通り壊れた機械のように、非効率と言う言葉を繰り返した。
「そうかもな」
「ワタシは人間が嫌いだ」
空気の抜けるような音と共に、ドアが閉まり始めた。
「そうか。僕はお前が好きだよ。」
悲鳴をあげながら閉じるドアの音にその声はかき消された。曇ったガラス越しに男と視線が交差した。
ハレの日にふさわしい快晴、とはいかず、外は雨の匂いで包まれていて、湿気とじめじめとした熱気で呼吸が少し苦しい。それでも僕の足はもう迷うことはなかった。軽い足取りで傘をさし、一歩また一歩と歩みを進める。
あぁ、雨は嫌いだ。ほんとうさ。
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