第四週

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第四週

土曜日の夜は、なんだか開放的な気分になる。 次の日も休みという事実がそんな気持ちにさせるのかもしれない。 僕は久しぶりにビール缶を開けて、ポテトチップスを肴に飲んでいる。 ポテトチップスはノリ塩味だ。塩辛い中にノリの豊かな風味が聞いていて最高。 それを流し込むように飲むビールはもはや至高の域。ごく、ごく、と喉を鳴らして一気に飲むのが好みだ。 ――だけど、何か足りない。 久しぶりのビールは果てしなく美味いのだけれど、何がいけないのだろう。 思い出されるのは、立花さんと夕飯を食べたあの日。 何を話すでもないけれど、隣で一緒にご飯を食べた、あの感覚。 僕は、人恋しいのか。 人の気配がないこの部屋で一人で酒を飲んでいるのがたまらなく寂しいというのか。 その考えに至って、なんだか部屋の温度ががくりと下がった気がした。 真夏にこんなことってあるのか? と思うぐらい冷えた気がする。 僕はため息をつくと、エアコンの電源を切って軽く着替えをして財布と携帯を掴んで部屋を出た。 大阪の夜は煌々と明るい。 電車で一駅先の飲み屋街に繰り出して、僕はとぼとぼと歩いている。 通り過ぎていく人の顔は、皆陽気だ。酒で真っ赤に染めた顔で、満面の笑顔をたたえている。 ――とりあえず、どこかに入るか。 どうせなら誰かが盛り上がっていて賑やかな所が良い。 そう思って一軒の居酒屋を見た時。 「みっちゃんやないの」 雑踏の中からよく通る声が僕を呼んだ。 「マダム・リサ……」 大阪に似つかわしい、ド派手なブラウスに足首まである長いフレアスカート。それを見事に着こなしているのだから、すごい。 「こんばんは。どうしたん、こんな暑い日に」 「どうも。賑やかな所に行きたくて」 「ふうん」 マダム・リサは顎に手を当ててこちらを覗き込む。 何だかすべてを見透かされているような気持ちになってきた。 「暇なら、アタシに付き合わへん? アタシも一人で飲みに来たんやけど」 「良いですよ。どこに行きましょう」 「アタシの行きつけの店でええ? 今の時間なら席も空いとると思うし」 「おまかせします」 僕もまだまだ大阪の街には疎い。慣れた人が案内してくれるというのなら文句もない。 「ほんなら、行こか。すぐそこやで」 くるりと踵を返したマダム・リサに続いて、僕も歩き出す。 「マダム・リサもお酒、飲むんですね」 「大人やでな。たまには飲みたくなる日もあるで」 「そりゃそうか」 マダム・リサが飲みたい理由。興味はあるが、教えてくれるだろうか。 「福田さんとは飲まないんですか?」 「てっちゃんは奥さんがおるでなあ。たまに誘われれば飲みに行くけれど、まあそんな機会はめったにないな」 「そうですか」 そういえば、この人も大概謎な人だ。 とても美人で、気立てが良くて、立花さんと仲が良い、と言うことぐらいしか僕は知らないのだから。 「さ、着いたで」 「本当にすぐでしたね」 慣れた様子でマダム・リサが暖簾をくぐる。 僕もそれに続いて店に足を踏み入れた。 「らっしゃい!」 明るく威勢のいい声が飛んでくる。 油で食材を揚げる音、何かを焼く音。それらが良い匂いとともに僕を包んでいく。 座敷ではグループ客がワイワイと盛り上がっており、活気あふれる店内だ。 「あ、マダム・リサ! お久しぶりですー」 案内に来た女性店員がまだマダム・リサを見て嬉しそうに笑った。 ……この人の顔の広さも底知れない。 「ひーちゃん、久しぶりやねえ。元気しとった?」 マダム・リサは親しげに女性店員に話しかける。 「はい、おかげ様で」 「今日二人なんやけど、座敷空いとる?」 「すいません、座敷は今空いてなくって……。カウンターやったらご案内できますけど」 「……どうする? カウンターでもええ?」 マダム・リサが僕を振り返って問うた。 「僕は構いませんよ」 それを確認すると「じゃあカウンターで」とマダム・リサは言った。 「ご案内しまーす!」 女性店員の元気な声が店中に響く。 僕とマダム・リサはカウンターの隣同士の席に着席した。 「生ビール二つ。あともろきゅう。みっちゃんは?」 「あ、僕唐揚げで」 とりあえず目についた美味しそうなやつを注文する。 「良い店ですね」 僕はおしぼりで手を拭きつつ、マダム・リサを見た。 「せやろ? 下品でもなく、上品過ぎず。こういう空気感が好きやわ」 マダム・リサは届いた生ビールを飲みながら言った。 改めて彼女の仕草を見ると、些細なことなのに妙に色っぽさがある。 例えば、グラスを傾ける、とか。枝豆をかじる、とか。 ありふれた動きなのに、見ているこちらがドキリとさせられる。 「みっちゃんさあ」 「は、はい!」 うっかり見惚れていた。やばいやばい。 「誰か好きな人はおらんの?」 「は?」 好きな人。好きな人? 「い、いませんよ、そんな人」 「あの女は? 前にフライデーに来た人」 「あの人は会社の後輩で、それ以上なんてありませんよ」 言いながら、野崎さんを思い出す。 ちょっと押しが強い所はあるけれど、仕事もできるし頼りになる人だ。 それだけ。特別に好意を持っているわけじゃない。 「他には?」 「他、ですか」 他の女性を思い浮かべようとして出てきたのは、立花さんだった。 立花さん。明るく優しい、「純喫茶フライデー」の看板娘。 情に厚く、曲がったことが許せないまっすぐな性格で、ごく普通の女の人。 ――それだけ、のはずなのに。 何故か立花さんの笑顔や泣き顔が頭の中に浮かぶ。そしてそれを魅力的に思っている自分がいる。 僕は頭を抱えた。 そんな僕を見て、マダム・リサはふう、とため息をついた。 「誰のこと考えてるん?」 「……」 「誰にも言わへんよ。アタシ、こう見えても口は固いんやで」 「……立花さんです」 言ってから、ちょっぴり後悔した。 こんな曖昧な気持ちをどうしようというのか。 「ナルちゃんな」 マダム・リサはくいっとビールを一口飲んで言う。 「あの子も可愛そうな子やけれど、見ての通りええ子やから大事にしたってな」 「……どういう意味ですか?」 「字面のまんまやで。どういう関係に落ち着くにしても、あの子を大事にしたってくれる人間でおってやって欲しいんよ」 僕はそれより「可愛そうな子」に引っかかっているのだけれど。どうやらマダム・リサはそれを教えてくれる気はないらしい。 「マダム・リサは立花さんと仲が良いですよね。お互いにニックネームで呼びあったり」 とりあえず、話を変えよう。 と言っても共通の話題なんてほとんどないんだけれど。 「せやね。なんたってアタシはナルちゃんの『一番の友達』やからなあ」 「一番の友達?」 「……もう何年も前の話になるな。アタシはそのころ、いろいろあって荒れとった。荒んだ気持ちで、でもお腹は減るし、ちょうど目についたあの店に入ったんよ」 マダム・リサは遠くを見ているかのようだ。ビールを飲む手を止めて、頬杖をつく。 「アタシの周りには誰もおらん。そんな孤独な気持ちを抱えたまま、カウンターの席に座って。注文したんはオムライスやった。それができるまで、アタシはボケッと呆けとったんやけど、あまりに気力がなかったからか、あの子が話しかけてくれたんよ。『何かあったんですか』って。アタシはもう何もかもどうでもよかったから、あの子に洗いざらいぶちまけた。そしたら、『それなら私が友達になりますよ、いつでも連絡ください』って、連絡先くれて。 それからチャットで連絡を数回やり取りして、気が付いたら仲良くなっとった」 マダム・リサがふふ、と思い出し笑いする。 「そのときのオムライスの味はいまだに忘れられへんわ。高い店みたいにトロトロの半熟卵やなくって薄焼き卵でチキンライスが包んであって。せやけど卵は柔らかくて甘くて、優しい味やったなあ。それがちょっと酸っぱいチキンライスともう絶妙に合ってるんよ。お母さんが作ってくれはって、ナルちゃんが仕上げのケチャップをかけてくれたんやけど、あの子ときたらへったくそなハートを描いてくれたんよ」 「……何だか、良いですね。そういうの」 心温まる、いい話だった。 もっと言うと羨ましくさえもある。 「そんなわけで、アタシはあの子に肩入れしとるから。あの子を泣かすような男はあかん」 「はは……」 一度泣かせてしまった場合はどうすれば良いのだろう。 僕はビールを飲みつつ、唐揚げをかじる。 レモンの酸味がジューシーな鶏肉との相性抜群だ。脂っこくなく、さっぱりといくつでもいけてしまう。 濃い味が欲しい時はマヨネーズ。濃厚な卵の甘みと酢の酸味がマッチしたまさに万能調味料。これが揚げた鶏肉と合わさればビールが進んでしまう罪の味だ。 「せやけど、恋は風見鶏、って言うやん? 風の吹く方向に心を向けるしかないし、それは他人がどうこうできるもんやない。本人にすらどうしようもないもんかもしれん」 「そんなものでしょうか」 「そんなもん。恋をしてしもたら、もう止まれへん。相手のことは自分のものでないと嫌やし、その分相手に尽くさせて欲しい、何かさせて欲しいっちゅう気持ちが収まらんのよ」 マダム・リサは「これは先輩風吹かすアタシからの忠告やけど」と前置きして、僕をしっかりと見据えた。 「どうにもコントロールできん愛情は、それでもハンドルを握っとらんとあかん。手放したら相手を傷つけるだけになってしまう。それだけは覚えとき」 ありがたい言葉だ。 と同時に、僕の曖昧だった感情がすとんと腑に落ちた。 認めたくない気持ちと同時に、ああやっぱりと諦める気持ちが入り混じる。 「ああ、そうか」 そういうことだったのか。 もやもやとした霧がだんだんと晴れていく。 後に残ったのが、愛情、というやつだろうか。 「僕、『純喫茶フライデー』の皆さんが好きです。それで、立花さんが大好きです」 出会ったころにボロボロだった僕を励ましてくれて、やりたかったことを諦めないでと鼓舞してくれて。 僕のために泣いて、笑ってくれる、そんな彼女が。 「嬉しいこと言うてくれるやん」 マダム・リサが二ッと笑った。 つられて僕も笑う。 追加した二杯目のビールで、僕たちは僕の健闘を祈って乾杯したのだった。 次の週の金曜日。 「立花さん、オムライスってありますか?」 「ありますよ。ソースはケチャップ? デミグラス? どっちにしましょう?」 「ケチャップで!」 当然のように僕はオムライスを食べに店にやってきた。 ふと、マダム・リサの手元を見ると、やっぱりオムライス。 その上にかけられたケチャップがハート型だったのに気が付き、僕はぐっと立てた親指をマダム・リサに見せる。 マダム・リサは笑って、ピースサインを返してきた。
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