第一週

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第一週

僕が野崎さんの名前を覚えたのは、会社の新入歓迎会の時だったと記憶している。 営業部はオジサンが多く女性が少なかったこともあって、野崎さんは開始からずっと料理の取り分けやお酌と、ぐるぐると忙しそうにテーブルをまわっていた。 ――何て不公平なのだろう。 彼女だってお酒や料理を楽しみたいだろうに。僕のいた部署ではこんなことなかった。 「代わりますよ」 僕はまわってきた彼女に声をかけた。 「え?」 彼女は不思議そうな顔をして僕を見る。 僕は彼女からビールの瓶を取り上げると、手近な人のコップに中身を注ぐ。 「よかったら、少し休んでゆっくり飲んできてください。今急いでお酒が必要そうな人もいませんし、料理も行き渡ってますから」 「お、新入り。お前がお酌するんか!」 そんな言葉を誰が言ったのか、何故かそれだけでわっと場が盛り上がった。 皆、完全に出来上がっている。 「で、でも、そんな、申し訳ないです」 「気にしないでください。歳は若くても営業部の先輩じゃないですか。後輩の顔を立てると思って」 それでもそわそわとしている彼女に、僕は刺身を盛った皿を持たせた。 「ごゆっくり」 「……どうも」 やっと彼女は空いていたその場に座って刺身を食べた。 無機質なスマホのアラームが鳴る。 僕は布団の上に汗だくで倒れていた。 「何だ、夢か」 今となっては懐かしい時を夢に見たものだ。 四月のことだから、ちょうど四か月前の出来事だ。 ――四か月前が「懐かしい」だってさ。 まだ営業という業種にもまれて神経をすり減らす前の話だ。余裕綽々、ではないにしろ、ちょっと仕事を甘く見積もりすぎだったよ、僕。 「さて、起きるか」 いつもよりちょっと早いけれど、まあたまにはこんな日も悪くない。 テレビをつけると、ニュースは芸能人の歳の差婚を特集している。 それを横目に食パンを取り出すと、チーズをたっぷり乗せてトースターに放り込む。 スマホでも朝の配信ニュースを見る。 特に大きな情報はなく、平和な一日のスタートだ。 チン、と軽快な音でトースターが完成を知らせる。 僕は皿に盛りつけてテーブルまで運ぶと、即席チーズトーストにがぶりをかぶりついた。 「あつっ! あぢっ!」 あっつあつのチーズがとろりと伸びる。その濃厚な味は豊かな大地の恵みの味だ。 「んふー!」 鼻からチーズの独特の匂いが抜けていく。 無性に食べたくなるんだよね、このシンプルイズベストな味が。 ついでに電気ケトルが甲高い声で僕を呼ぶ。 僕はカップにインスタントコーヒーを入れてお湯を注ぐ。 少し濃いめに淹れて、氷をぽちゃぽちゃと投入する。 牛乳で割ってカフェラテにしてもいいけれど、ちょうど切らしていたので仕方ない。 「――今日は西日本を中心に青空が広がるでしょう」 最高の一日になりそうな気がする。 そんな予感を胸に、僕はアイスコーヒーを啜った。 と、思っていたのだ。昼の十二時を過ぎるまでは。 「……」 「……」 何故か、「純喫茶フライデー」の店内で、野崎さんと立花さんがにらみ合うという、不可思議な状況に陥っていた。 「小野町くん、何とかしてくれや、この空気……」 早くも福田さんが音を上げている。 「僕だって何とかしたいですけれど……」 僕だってこんな状況に望んで身を置いているわけではない。 話の発端は、約三十分前に遡る。 朝からプチ贅沢を楽しんだ僕はうきうきと仕事をこなしていた。 せっかくだから、「純喫茶フライデー」に行って、がっつり食べたい。 そんなことを考えながら、顧客リストを開いた時だった。 「小野町さん」 声のした方を振り向くと、野崎さんがしゅんとして立っていた。 「はい……?」 なぜそんなに元気がないのだろう、と不思議に思っていると。 「あの、先日は大変ご迷惑をおかけしてすみませんでした」 野崎さんが頭を下げた。 先日。先日。何だったっけ。 「すみません、何も思い当たることがないのですが……」 「……金曜日にお弁当を食べていただいていた件です」 ああ、あの時の事か。 「別に、気にしていませんよ」 そのあとちゃんと反省してくれたみたいだし、いまさら何か言うことはない。 「ホント、優しいですね。小野町さんは」 「そうですか?」 特別優しいわけじゃないと思うけど。 「それで、あの、こんなこと言うのは厚かましいとは思うのですが、その小野町さんの行きつけの喫茶店を教えていただけないでしょうか?」 「え?」 「だって、気になってしもたんですもん。小野町さんがそんなに足しげく通ってるお店なんて」 もじもじと恥ずかし気にそんなことを言う野崎さん。 別にいいか、お店もお客が増えるんだったら嬉しいだろうし。 「良いですよ。今日で良ければ一緒に行きませんか?」 「……えっ! 良いんですか?!」 彼女はぱっと顔を上げた。 「あ、お弁当お持ちなんでしたっけ。だったら別の日でも――」 「いえ、今日で大丈夫です! 今日行きましょう!」 ということで、十二時十分、二人で「純喫茶フライデー」のドアをくぐったのだった。 ――ここまでは問題ない。ここからだ。 「いらっしゃいませー」 いつもの立花さんのお迎えの声が聞こえた。 僕たちは三つ並んだテーブル席のうち、一番奥の席に座った。 そのすぐ後、福田さんが入ってきて、続いてマダム・リサも入店した。 さて、今日は何を食べようか。 わくわくしながらメニューを開く。 今日はもう内勤だけなので安心して何でも食べられる。 何気なくページを繰ると、「昔ながらのカレーライス」という一言に目がとまった。 「私、ナポリタンにしようかな。小野町さんはどうされます?」 野崎さんが問うてきた。 「あ、僕はカレーライスで」 「プラス五十円でカツカレーにできますけど」 すかさず立花さんの甘い誘惑。 がっつり食べたいときにカツを勧められたら、それは食べるだろう! 「それでお願いします!」 「はーい、お待ちください」 笑顔で厨房に入っていく立花さんを見送る。 僕が多趣味でいろいろ話題を持ち合わせていればよかったのだけれど、あいにく豆知識はほとんどなくて、結局仕事の話をする。 それでも会話が続かなくなると、福田さんが 「今日はえらい別嬪さんつれとるやん」 と茶化してくれたり、マダム・リサが 「ふうん。みっちゃんも隅におけへんなあ」 と意味ありげに笑ってくれたおかげで、何とか場を持たせることに成功した。 そしていよいよメインディッシュの登場だ。 「お待たせしました」 立花さんがお盆で一皿ずつ料理を運んでくる。 僕の前には、ホカホカと湯気の立つカレーが、香ばしいスパイスの匂いとともにやってきた。 揚げたてのカツがじゅうじゅうと音をたててごはんとカレーのど真ん中に鎮座している。 「いただきます」 手を合わせた後、さっそくご飯を少しカレーに混ぜてそれを掬って一口でパクリ。 ガツンと来るスパイスがたまらない……!絶妙な配分で調合されたそれは、きっと黄金比に違いない。 野菜も小さめカットではなく、大胆に大ぶりに切られていて、このゴロゴロとした感覚が懐かしい感覚を呼び起こす。 牛肉の甘さと野菜のうまみが合わさって、さらにそれをスパイスが引き立てる。これはまさしく食の協奏曲……! そして、揚げたてのカツにもかぶりつけば、気分は最高潮に。ジューシーな油と肉の本来のうまみが完全にマッチしている。 もちろん、ご飯はふっくらつやつやの炊きたてご飯! 百点満点中百二十点! 素晴らしい! 僕がカツカレーに舌鼓を打っている間に野崎さんもナポリタンに口をつける。 口に入れて咀嚼している間、真剣に何か考えている様子だ。 でも僕の視線に気が付くとにっこり笑って「美味しいですね」と言う。 「でしょう? ここの料理は最高に美味しくて」 「そうですねえ……」 と、野崎さんが立花さんを見やった。 立花さんも野崎さんを注視する。 ――急に空気が重苦しく変わった気がした。 野崎さんの挑むような視線と、それに対抗する立花さん。 おかしな拮抗状態が生まれてしまったのだ。 と、今につながるというわけだ。 二人はもうかれこれ十分ほどにらみ合っている。 僕は何か言わなければいけないような気がしているものの、火に油を注ぎそうで言い出せないでいる。 気まずい。店内のシンとした静寂は嵐の前触れを予感させている。 すると、おもむろに野崎さんがナポリタンの最後の一口を口に運ぶ。 それをゆっくりと咀嚼して、飲み込んで、そして。 ――彼女は不敵ににやりと笑ったのだ。「勝った」と言わんばかりに。 「……!」 立花さんが目を見開く。 ちょうどその時、ピロリロ、と誰かの携帯が鳴った。 「私です」 野崎さんが社用のスマホを確認して、鞄に突っ込んだ。 「すみません、小野町さん。呼び出しがあったのでお先に失礼いたしますね」 野崎さんは自分の分のお会計を済ませると、ちらりと立花さんを見て、僕に向き直った。 「今度、私のうちに遊びに来てください。最高のナポリタン、ごちそうしますで」 「……へ?」 「私、鉄板ナポリタン用の皿を持ってるんです。名古屋風のナポリタンはここらへんじゃあ食べられませんから。ぜひお越しください」 僕が何か答える前に、野崎さんは店を出て行ってしまった。 「ふぅー……」 気が抜けたのか、福田さんが深い息をついた。 「何やったんやあれは……」 「さあ……僕にもわかりません」 「アホやなあ、アンタら。あれはな、ようは宣戦布告や」 マダム・リサが言った。 「宣戦布告……?」 「せやで。あの女が言いたかったんは、『ここよりも上等な料理でみっちゃんの胃袋掴んでやるから、アンタには渡さへん』ちゅうことや」 「へえ……?」 さすがはマダム・リサ。状況を的確に把握している。 けれど、僕の胃袋を掴んで何をしようと言うのか。 「……みっちゃん、いまいちピンと来てへんやろ」 ぎく。 「女が男の胃袋を掴むっちゅうことはな、すなわち自分の手中に収める、ってことや」 「ええ?!」 僕が、野崎さんのものになるって?! そんなことありえないだろう、と思って立花さんを見た。 ――彼女はなぜか泣き出しそうな顔をしていた。 「すみません立花さん。何か失礼を――」 「ちゃいます、そんなんや、なくて」 立花さんはフルフルと頭を振って、とつとつと言葉を紡ぐ。 「悔しいん、です。あの人に挑まれて、負けたくないって返したつもりなのに、結局気持ちで負けてしもとるんやないかって」 カウンターに突っ伏してしまった立花さんに、マダム・リサがそっと寄り添う。 「ナルちゃん、諦めたらそこで終わりやで。最後までもがいて、あがいて、それでもだめやったらいっぱい泣きや。それまでは泣いとる暇はないで」 「うん……うん……」 立花さんは涙を拭いて、パシンと両手で自分の頬を叩いて、しっかり前を向いた。 とりあえず、一件落着で良いのかな? 「みっちゃんも油断しとったらあかんで。これからが本番なんやでな」 「は、はい!」 何が本番なのかはわからないけれど、とにかく大変なことが起ころうとしているのはわかった。 「ホンマ、罪な男やで」 福田さんが僕に憐れむような生暖かい視線を投げて寄こした。 「は、ははは……」 最悪の事態にはなりませんように。 僕はただそう祈るばかりだった。
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