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第二週
セミの大合唱がそこかしこから聞こえるようになった。
地面からは陽炎が立ち、頭上からは容赦ない夏の日差しが照りつける。
例年より少し早い真夏日の到来に、僕はふうと息をつく。
今日の出先でのプレゼンは上手くいった、と自負している。説明も質疑応答も、理想的な運びだった。
頑張ったぞ、僕。偉いぞ、僕!
ぐっと小さくガッツポーズをして、オフィスに戻るべく歩き出す。
太陽はぎらぎらと輝いて、立っているだけで汗が噴き出てくる。
こんな日は冷たいものが良い。
出来れば、甘いとなおいい。
「純喫茶フライデー」にそんな料理はあっただろうか。
そこまで考えて、苦笑する。
僕は「純喫茶フライデー」にすっかりどっぷりと浸かってしまっている。
でも、それが心地いと思うんだからしょうがない。
誰にともなく言い訳をして、スーツの袖のしわを伸ばす。
それに。
立花さんを始め、いつものメンバーに会いに行くのも楽しみの一つなのだ。
とりわけ、立花さんの顔を見ると何だかほっとする。
完全に僕の憩いの場になってしまっているが、それだけあそこは居心地がいいのだ。
こちらのテリトリーに踏み込んで欲しい時に遠慮なく入ってきて、しかしきちんと一線をわきまえていて。全く会話がストレスじゃない。
僕はあの場所をいつまでも守っていたいと、そうまで思うようになっていた。
そのためにも、まずは買い支えるところからだ。
今日の料理を楽しみにしながら、僕は足取り軽く店に向かっていた。
「こんにちはー」
予定通り、十二時を少し過ぎたころ合いで店に到着した。
「あ、小野町さん。いらっしゃいませー」
もう聞き慣れた立花さんの大阪イントネーションによる迎えのあいさつ。
立花さんは最近僕の顔を見るたびに花がほころんだような笑顔を見せてくれるようになった。
「おう、小野町くん。来たか」
福田さんがにこにこと手を振っている。
「えらい汗だくやんか。外回りか?」
「そんなところです」
「大変やねえ。外は地獄の暑さやっちゅうのに」
マダム・リサもクリームソーダをちびちびと飲みながら労ってくれる。
「まだまだ、暑さは本番じゃないみたいですからね。熱中症には気をつけないといけませんね、マダム・リサ」
「せやねえ」
言葉はさらりとしているけれど、こちらを気遣う視線にはちゃんと気づいている。心から心配してくれているのだ。十分じゃないか。
そうこうしているうちにお冷とおしぼりを持った立花さんがやってきた。
「ご注文はお決まりでした?」
「今日は暑さのせいか、あまり食欲がなくて……。おすすめはありますか?」
「おすすめ、ですか」
立花さんは三秒ほど考えるそぶりをして、パン、と両手を合わせた。
「プリン・アラモードはいかがですか? 甘くて冷たいし、するっと喉を通りますよ」
「ああいいですねえ。じゃあそれ一つ」
「はーい」
にっこりと笑って厨房に帰っていく。
「そういえば、あの女とはどうなったん? なんやえらいみっちゃんにアプローチガンガンかけて来とったけど」
マダム・リサが訊ねてきた。
「ああ、野崎さんですか。いや、特にあの後は何もないですけれど……」
少し前に野崎さんの家にナポリタンを食べに来てくれと誘われたものの、最近仕事がお互いにたて込んでいるせいか、それ以来音沙汰はない。そのうちあるかもだけど。
「ぶっちゃけさあ、どうなん? あの人の家に来いて誘われたら行くん?」
「状況によりますかね……」
積極的にどうしても行きたいか、と言われればそんなことはないのだけれど、大人にはお付き合いというものがある。その辺を加味して、と言ったところか。
「そこはハッキリと『行きません』って言うべきやろ。なあ、ナルちゃん」
「な、何で私なんです?」
突然話題を振られて驚いたのか、立花さんがカシャンとスプーンを床に落とした。
声も若干上ずっている。
「だって、気になる人が他の女の家で何しとるかわからへんて、気持ち悪いやん」
「そ、そんな事あらへん。大体、誰とどう付き合うかは小野町さんの自由や。私がどうこうする理由なんてないやん……」
確かにその通りだ。
そう思う反面、その言葉になぜか寂しさを感じている自分がいる。
もっと甘えて欲しいし、わがままを言って欲しい。
これは男の女性に対する本能なのかもしれない。
「そらそうなんやけど、もうちょっと自分の気持ちに素直になって男に寄りかかったほうがええ時もあるで」
福田さんが口をはさむ。
「男っちゅうんはな、女の子に頼られるとええとこ見せなあかん、って張り切ってまう生き物やで。そっちの方が男は嬉しいんよ。やで、何でもとは言わんけど、たまには甘えたほうが効果的やで」
「流石てっちゃん。男ぶり爆上がりやな」
へへへ、と笑う福田さんの言うことも一理ある。
ちらり、と立花さんが僕を見る。
僕はただ笑って返す。
「……こないだ充分甘えさせてもろたし」
誰にも聞こえないようにぼそりと呟かれたそれは、一番近くにいた僕だけに届いたようだ。
多分、映画に行った時に僕が奢る奢らないですったもんだしたことか。
女の子との遊び代くらい男がもつものだ、と言う僕と、きっちり割り勘で、という彼女とでちょっとばかりもめたのだ。
結局僕が払ったのだけれど、彼女はまだそれを根に持っているらしい。
どれだけいい子なんだと僕はうっかり涙しそうになったぐらいなのだ。
「……お待たせしました」
ちょっと気まずそうに立花さんがプリンを運んできた。
「待ってました!」
僕はさっと自分の前のスペースを片付ける。
目の前に現れたのは、まさにスイーツのパラダイスだった。
まず目につくのは中央に堂々と座っている主役のプリンだ。
その威風堂々たる様はまさしくおやつの王様。金色の体が高貴なものに思われる。
そして周りを彩るフルーツの数々。みかん、キウイ、グレープフルーツ、いちご……どれも瑞々しくキラキラと輝いて主役を存分に引き立てている。
そして、所狭しと添えられた生クリームの白さがしっかりと映えている。
目で見るだけでもう美味しい。
ごくりと唾が喉を降りていった。
「いただきます」
いよいよスプーンをもって実食だ。
まずはプリン。プルプルのそれを一口掬う。
口に入れると、濃厚なカスタードの味、次いでほろ苦いカラメルが追いかける。絶妙なバランスだ。
つるりと喉を過ぎていく感覚も嬉しい。冷たく甘く、今の時期に言うことなし。
フルーツもキンと冷えていて美味しい。甘味のプリンに対して酸味を備えた爽やかな味が口の中ではじける。生クリームと合わせれば、酸味が苦手な人でも十分食べられる。
まさに楽園と言って過言ではない豪華絢爛さだ。
だけど、僕は考える。
僕がこれを夏に提供するとしたら――。
「立花さん、ちょっと良いですか」
「?」
不思議そうな顔をして寄ってきた彼女に「あくまで一個人の意見ですけれど」と前置きして言う。
「このプリン・アラモード、例えば夏限定でアイスクリームかシャーベットを添えてみたらどうですか? 小さめのものならプリンも見劣りさせずにいけると思うのですが。それと、生クリームの上にカラーチョコをトッピングしてみては? 彩りも良いし、カリカリの食感があると、今の柔らかい食感にもメリハリがつきます」
突然のことに、立花さんはぽかんとしている。
マダム・リサと福田さんも呆けているらしい。
「あ、その、難癖をつけているのではなくて。こういうのもあったら良いなーと言う一人のお客の意見でして」
慌てて誤解を解こうとそう言った。
「……ちょっと待ってください」
そう言ったのは立花さんだ。
彼女はいったんカウンターの中に戻ると、お盆と紙を持ってきて、胸ポケットからいつも注文を取るときに使っているボールペンを抜いた。
「えっと、アイスクリームかシャーベット……味は何が良いですか?」
「バニラか、周りのものと被らない果物の味が良いですね。レモンとか」
ふんふんと真剣に僕の意見に耳を傾ける立花さん。
「……ようそんなん思いつくねえ」
マダム・リサが言った。
「……癖でして」
へらりと笑って躱した、つもりだった。
「小野町くん、あれやろ。東京におったときって、企画の仕事してたやろ?」
流石に福田さんの目はごまかせなかった。
「何でそう思ったんですか?」
一応聞いておく。
「揚げパンのこともそうやけど、そうポンポンとアイデアが出て、しかもバリエーション豊富ときたら、そりゃそういう部署を想像するわな」
降参。大当たりだ。
「まあ、今はもう昔の話ってやつですよ。今は本社から捨てられた営業マンですから」
「捨てられたって、どういうことなんや?」
「そのままですよ。ろくに結果も出せず、二年も必死で居座ってしがみついたのに、与えられた選択肢は『辞めるか、移るか』ですよ。僕はチキンだったので移るを選んだ、それだけなんです」
「……」
福田さんが言葉を失っている。
「みっちゃんの会社って、何の商売してるんやっけ?」
マダム・リサが問うた。
「デザインですよ。ロゴからイラスト、写真まで。いろいろなデザインを手掛けてます」
「その会社も損したなあ。みっちゃんみたいにええ人材手放して」
「そう言ってもらえると浮かばれます」
はは、と笑って笑い話にして。これでお終い。
――そう思ったのに。
「……許せへん」
「え?」
ポツリと漏れた言葉は、立花さんの声だった。
ばっと駆けだそうとした彼女の肩を、僕は引きとめていた。
「どこに行くんですか」
「小野町さんの会社に電話します。そんなん、おかしいやん。抗議します」
「いやそんなことしたって」
「無駄やなんてわかりませんやん! もしかしたら、東京に戻してもらえるかも――」
「やめとき、成海ちゃん」
やんわりともう片方の肩に手を置いたのは福田さんだった。
「成海ちゃん、会社っちゅうんは、そう簡単やあらへんねん。理不尽なことだってある。小野町くんのことだって悪意からそうしたわけやないやろう。たまたま大阪の営業で人が足りんくなって、たまたま企画には十分な人がおって、その中からたまたま小野町くんが選ばれてしもうただけやねん。それを誰も責められへん。会社員っちゅうのは会社のために働く人間やさかいな。会社の都合に振り回されることもしょうがないんよ」
宥めるような、あやすような、優しい声で福田さんがたしなめる。
「だって……。小野町さんはこんなにすごいアイデアをいっぱい持ってる人やのに……それを会社のために活かそうとしてたのに……それが好きやったのに……なんでなん……」
とうとう立花さんがその場にしゃがみこんで泣き崩れてしまった。
僕の無念のために泣いてくれる人がいる。
そのことに胸が張り裂けそうなほどの感動と、嬉しさを感じる。
立花さんのまっすぐで優しい泣き顔から、僕はずっと目が離せなかった。
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