第三週

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第三週

連日蒸し暑い日が続いている。 八月に入って地球のテンションはうなぎのぼりだ。 僕は自動販売機から買ったばかりのスポーツドリンクを取り出す。 蓋をあけて、一気飲み。 オーブントースターのようにじりじりと僕を焼き焦がす日光の辛さを一瞬忘れる。 ――焼き焦がす、と言えば。 先日の「純喫茶フライデー」での、あの気持ち。 立花さんが僕の転勤に憤って泣き出した時、申し訳なさと同時にはっきりとした高揚感に包まれたのを覚えている。 あの日の感情が、僕の胸を焼き焦がしている。 それはずきずきと痛み、時に鋭く突き刺さるような痛さに変わり、僕をさいなんでいる。 彼女の泣き顔を忘れられない。 どうしたって、笑ってくれている時のほうが嬉しい、そのはずなのに。 あまりにも優しすぎるその涙に、きゅうと胸が締め付けられるのだ。 痛いけど嬉しい、なんて。 自分はどこか倒錯してしまったのか、と自嘲する。 あの後、どうしても泣き止めない彼女についていてあげたかったけれど、残酷な時間は僕を待ってはくれなかった。 「ここは任しとき」 そう言ってくれたマダム・リサに彼女を託し、レジカウンターに置かれたトレーの中に千円札を入れて、店を辞した。 立花さんの代わりに店先まで送ってくれた福田さんは言っていた。 「あの子もまだ若いで、世の中の理不尽に耐えられやんのやろうなあ。本当はそういう気持ちを失ったらあかんのやけど、いつの間にかわしはどこかへ置いてきてしもたんやなあ」 僕も、失っていた。 それを彼女は思い出させてくれた。 だからといって何か変わるわけではないけれど、それでも意味はあったに違いない。 これを、人は切なくてあたたかい、と形容するのだろうか。 僕が詩人だったらもっと的確な言葉で言い表すことができるのだろうか。 もし今日、僕がお店に顔を出せて、彼女がいたら。 真っ先にお礼を言おう。嬉しかったです、ありがとうございますって。 「よし……!」 気合は十分。 僕は鞄を持ち直して、一歩踏み出した。 しかし、現実は残酷だった。 会社に帰りついて時計を見ると十七時四十五分。 会議が伸びに伸びてしまったので仕方ないと言えば仕方ないのだが、精神的にがっくりくるものがある。 「小野町、今日はもう切り上げて帰れよ。今日は残業禁止デーやでな」 「はぁい……」 高枝部長のご厚意、という名の追い出しに甘えて、僕は荷物を持って会社を出た。 とぼとぼと駅に向かう。 その途中に、何気なく「純喫茶フライデー」を見た。 真っ赤な夕焼けの中に、黄色い明かりが灯っている。 何ともノスタルジックな一瞬だなあ、などと思っていると。 「ありがとうございました」 ドアが開いて、立花さんの声が聞こえて、老夫婦が店を出て行く。 その一瞬に、僕と彼女の視線が合った。 だけど、支えるもののないドアはひとりでにパタンと閉まってしまった。 どう見ても営業時間外だ。 このドアを開けて良いものか、迷う。 悩んで、腕を伸ばしては引っ込めてを繰り返していると、ドアが勝手に開いた。 「……小野町さん?」 ひょこりと彼女が顔を出す。 「ど、どうも」 僕は癖で頭をぺこぺこと下げてしまう。 「こんな時間までお仕事ですか?」 「立花さんこそ。営業時間すぎてますよ」 「そりゃ、お客さんがいらっしゃれば閉めるわけにいかないですし」 それもそうか。 沈黙が降りる。何をどう切り出せばいいのか、考えろ、僕! 「きょ、今日は暑かったですね!」 何故だ! もっと気の利いた言葉はなかったのか! 「そうですね、まだまだ日増しに暑なってますね」 ふふ、と彼女が笑う。 「あ、えっと、そう、この間はありがとうございました!」 「え、この間って……?」 きょとんと首を傾げる彼女。 しまった、これじゃあ伝わっていない! 「あの、アレですよ」 何とかジェスチャーで伝えようと試みる。 僕の下手くそな身振り手振りで伝わったのか、立花さんは少し俯いた。 「あの、良ければ中に入りませんか?」 彼女の頬を染めているのは真っ赤な夕日か否か。 それは定かじゃないけれど、僕は頷くことしかできなかった。 レトロな店内に真っ赤な夕日が差し込む。 何とも言えない、この郷愁を誘われる感じが良い。 僕は案内されるままにカウンターの適当な席に腰を下ろす。 隣の席に立花さんが座った。 「先日は、お恥ずかしい所を……すみませんでした」 深々と頭を下げる立花さん。 え、何で? 「立花さんは何も悪くないですよ。僕が変な話をしたから」 僕が驚いてそう言うと、彼女はふるふると頭を振った。 「でも私、本当に嫌だったんです。小野町さんは、何かアイデアを出してくださるときは、いつもキラキラしとって、ああ好きなんやなってすごく伝わりましたから。それを、そんな会社の都合なんて、そんなもので潰されたんが、すごく悲しくて、悔しくて」 きゅっと背中を丸めて、少し下を向いてとつとつと話す彼女が、すごく儚く見えて。 ――無性に抱きしめたかった。 「僕は、大丈夫ですよ。今の仕事も楽しめていますし。確かに何か新しいことを考えるのは好きですけれど、それが必ずしも仕事に活かせられればいいわけじゃないですし」 そうする代わりに、僕も言葉を紡ぐ。 「でもあの日、立花さんがあんなにも怒って泣いてくれて、僕は嬉しかったです。気分が晴れたとかそういうのじゃないですけれど、なんて言ったら良いんだろう、うん、嬉しかった」 「……でも」 「それにほら、今はこの店の役にも立ててますし。良い特技だと思うんですよ」 努めて明るく言った。 「……小野町さんは、ホント、ええ人ですね」 「そうですか?」 「うん」 言い切られてしまうと、「そんなことはないですよ」なんて謙遜も引っ込んでしまう。 日が沈んでいく。 辺りは少しずつ薄暗くなっていく。 立花さんの気配が、心地いい。 ずっとこの時間が続けばいいのに、なんて。 今どき恋する乙女でもそんなことを考えたりはしないだろう。 そろそろ夕飯の時間だ。 でも、帰ります、なんて言えないし言いたくない。 「「あの」」 声が重なった。 「立花さん、どうぞ」 「あ、その、夕飯、食べていかれませんか? もうええ時間ですし」 立花さんのその言葉で、思い出したようにぐう、とお腹が鳴った。 「……すみません、堪え性がなくて」 「素直でよろしい」 くすくすと笑う彼女。なんだかとっても恥ずかしい。 「お腹すいてますでしょう? ハンバーグとかどうですか?」 「良いですね、僕の大好物なんです」 それを聞いた彼女は椅子から降りると、カウンターの中に入って冷蔵庫を開く。 テキパキと材料を用意する姿は流石に慣れている。 ジュワア、と肉の焼ける音がすると、途端にいい匂いが充満する。 急かす腹をなだめながら、彼女の手元を観察する。 動きに全然無駄がなく、手早く、それでいて雑じゃない。 それは料理人と呼ぶにふさわしい手際だった。 素人のそれじゃない。どこか専門の学校にでも行っていたのかも。 考えてみると、彼女のバックボーンについてはいまだ謎も多い。 今なら教えてくれるだろうか。 「立花さん」 「ん?」 「立花さんって、普段何しているんですか?」 「料理教室に通ってます。色々覚えるのが好きで」 なるほど。それなら納得の腕前だ。 「お料理、好きなんですか?」 「……まあ、家の仕事に活かせれたらなあ、って思ってはいますけど」 それは好きと言っていいのでは。 「はい、できましたよ」 僕の追及を遮るように、ハンバーグが登場した。 しっかりと焦げ目の付いた肉からは香ばしい匂いが立ち上っている。 赤いケチャップが目に眩しい。 添えられたグリーンサラダも新鮮そのもの。 「いただきます!」 早速ハンバーグをケチャップにつけてパクリ。 噛んだ瞬間、大量の肉汁が肉からあふれ出す! その旨味ときたら、ちょっとそこらにはない。 絶妙な柔らかさとジューシーさが僕の口の中で重厚な和音を奏でる。 「うーまい!」 思わず口から声が出た。 「お褒めにあずかり光栄です」 皿にこんもりと盛られた白米を置きつつ、立花さんが言った。 次は野菜。レタスがシャキシャキ、ブロッコリーは柔らか。 にんじんはほのかにバターの香りがする。 「これ、なんて言うんでしたっけ?」 僕がにんじんを指して言う。 「グラッセですか?」 「そうそれ!」 これがたまらなく好きだ。たまに茹でただけのにんじんが添えられていると、ちょっとがっかりするぐらい。 ハンバーグをお供に、ご飯もかきこむ。 ホカホカの炊きたてご飯は、何より最高だ。 僕が大盛りのご飯を食べ進める横で、立花さんも自分の分を食べ始める。 何とも奇妙な食事風景。 だけど、この上なく幸せな一瞬に感じられた。 「ごちそうさまです。美味しかった」 鞄を持って店を辞する。 「そう言ってもらえて何よりです」 店先まで立花さんが見送ってくれる。 何とも、名残惜しい。 「……こういう時、なんて言ったらええんやろ」 彼女もまた、同じ気持ちでいてくれているのかもしれない。 「また、金曜に」 「え?」 「さようなら、っていうのはちょっと寂しいですから。次の約束をしたほうが前向きで、わくわくするでしょう?」 僕は茶目っ気たっぷりにそう言った。 「……ずるいなあ。そんなん言われたら、楽しみにしてしまいますよ」 「そうしてくださると、僕も嬉しいです」 そう言って去ろうとした背中に、「小野町さん!」と声がかかる。 「何があっても、本当にやりたかった事だけは忘れやんといてください! 私、小野町さんのこと、応援してますから!」 僕は手をあげてその場を辞した。 目頭の奥が、ツンと熱かった。
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