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5.淫が応報
「お兄ちゃん!」「英雄!」
順子と麻耶の悲痛な叫びが響いた。
交通整理の合間に運転手が二人に頭を下げて謝罪した。
「な、何で英雄がこんな目に……」
順子は死にかけの息子の姿を目の当たりにして取り乱している。
「ちょっとお母さん落ち着きなよ」
麻耶が宥めるも順子は運転手に詰め寄りながら号泣し始めた。
緊迫したこの状況でもお構いなしに乱れるスマホの中の松田沙李。
しかし幸いにも順子の号泣でその音がかき消されている。
このまま気づかれないうちに動画を消せっ!と薄目を開けてテレパシーを強力にすると、本当に通じたのか速水の動きが止まった。
そしてすくっと立ち上がり、運転手を詰り続けている順子の元へ歩み寄った。
「英雄くん歩きスマホしてたみたいですよ」
………!?
速水のことは知っている順子と麻耶は、そう言われて英雄が握るスマホの画面に目をやった。
よりによって今画面にはアクロバティックに性を謳歌している松田沙李が大映しになっている。
最悪を通り越した。
画面を見た肉親たちから魂が抜けていくのが薄目でも鮮明に確認できた。
ちなみに運転手は笑いを堪える為に不自然に歯を食いしばっていた。
英雄はせっかく助かっている命をなげうってしまいたいと今度は神様にテレパシーを送った。
順子は一切まばたきもせずに地面に目をやっている。
「キモ」
兄を慕っていた麻耶は軽蔑全開で吐き捨てるようにそう呟いた。
英雄にとって恐れていた事態になってしまった。
歩きスマホでいかがわしい動画を見たのは人生初なのに日常的に見ていたと思われるのが耐えられない。
そしてますます激しくなる松田沙李のヘビメタシンガーのようなシャウト。
麻耶は瀕死の兄を吐瀉物を見るような目で見下ろし、抜け殻状態の順子の手を引いて離れていった。
その状況を見て速水は完全に笑っていた。
英雄は自分に忠誠を誓っていると信用していた速水に裏切られたことを認識した。
速水に反旗を翻されたら、車に跳ねられ死にかけても絶対にスマホを手放さなかった『生と性への執着男』などと言い触らされてしまうだろう。
この身体ではそうなる前にぶちのめすことができないと歎いていると、救急車が到着した。
隊員が機敏な動きで英雄に駆け寄る。
担架に乗せる前に英雄の状態を確認する際、やはり聴こえてくる松田沙李の声。
隊員たちがスマホをちらっと見た。薄目でも彼らの困惑が見て取れた。
すると隊員の一人が気を利かせてスマホを消そうとしてくれた。
これで救急車の中での悲劇は避けられると安堵する英雄。
しかし……
タッチパネルも音量ボタンも電源ボタンも壊れていて反応しなかった。
「ずいぶん反応がいいんだね」
男優の卑猥な台詞が皮肉に響いた。
隊員は諦めて英雄を担架に乗せて救急車へ運んだ。
「ご家族の方はいらっしゃいますか」
英雄がしゃべれないので、隊員が同乗する家族を大声で求めた。
順子も麻耶も名乗り出なかった。
肉親とは絶対聞きたくない音声を逃げ場のない救急車の中で聞かされ続ける生き地獄を拒んだのだろう。
「僕が乗ります。弟です」
速水が名乗り出た。
英雄が薄目を開けていることに気づいていない速水は特上のネタが手に入る期待で、救急車に乗り込みながら下卑た笑顔を浮かべていた。
淫らな音声が大音量で流れ、重体患者を前に救急車の中は複雑極まりない空気に包まれている。
その中で速水だけは抑えきれない笑いを泣いているフリで誤魔化していた。
周りの人間への思いやりは皆無、気に入らなければ暴力、それで英雄気取りだった町野英雄。
彼はこうして羞恥を軸に家族と舎弟に裏切られるという報いを受け始めた。
「もうやめて〜」
絶頂に達する松田沙李の悦びの悲鳴が救急車内に響き渡る。
英雄は「こっちのセリフだ」と心の中で自嘲した。
その後「でも歩きスマホはもうやめるかな」とも思った。
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