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第2話 不思議な風
千紘は先輩の明美達と数人で社食に向かっていた。基本的に派遣は派遣仲間で集まって食堂に座り、食事をしていた。ふと楽しそうな声が聞こえて、そっと見てみる。
「海斗くん、今日もイケメンですね」と派遣の1人が言った。
「まぁ、私たちは見てるだけ。目の保養、目の保養~」明美が笑いながら言う。
営業部の佐々木 海斗は若手社員のホープだった。営業成績はトップクラス、背は高く爽やかなイケメン。
同じフロアにいても目立つ彼を、千紘は少なからず憧れの気持ちをもって見ていた。
それでも海斗と千紘が仕事で関わることは一切なく、自分の事は名前すら知らないんだろう……と、千紘は最初から期待はもっていなかった。
ランチが終わりフロアに戻る途中、廊下に何か落ちているのを見つけた。
千紘はその小さいケースを拾い上げ、中をそっと開いた。そこには海斗の名前の名刺がぎっしりと入っていた。
「佐々木さんの名刺入れだ!」
千紘はえらいものを拾ってしまったと動揺する。
「どうしよう。これはないと困るものだよね……」
千紘は頭の中で考えた。海斗は自分の存在すら知らないかもしれない。突然名刺入れを持っていくなんて大体な行動は千紘には無理だった。
そっと机に置いておくのが無難だ……
そう決めて千紘はフロアに戻る。さっと海斗のデスクの前を通り、名刺入れを置いておいた。
しばらくしてから海斗がランチから戻って来た。机の上の名刺入れにいち早く気がついた海斗は
「失くした名刺入れ! あった! 誰が拾ってくれたの? 誰か知らない?? 困ってたから助かったよ~」と大きな声で話している。
「え~。知らな~い」という周りの声が聞こえる。
千紘はその声をそっと聞きながら
やっぱり直接渡せば良かったと、心底後悔していた。
◆
~2021年8月27日~
千紘は今日も仕事を定時で上がり、夏のまだ明るさが残る夕方を自宅に向かって歩いていた。
家のすぐ側の角を曲がると、誰かが立っているのが見えた。
「高校生かな? どこの制服だろう?」
千紘は自宅と隣の家の間に立っている彼を横目でそっと見て、そのまま家の門を開けた。
すると突如として突風のような風が吹き、千紘は思わず「わっっ」と顔を隠した。
風はすぐに収まったようだった。千紘は何事かと、思わず辺りを見回す。
特に周りに何か変わった様子はない。まるで千紘だけが風に吹かれたように、辺りは落ちている葉っぱすら動いていなかった。
千紘は不思議に思いつつ「そういえば……」とさっきの高校生を探した。
「あれ? さっきの子、どこ行ったんだろ?」
左右を探しても、どこにも彼の気配はなくなっていた。
◆
夕飯を食べた後、千紘は部屋で先ほどの出来事を思い出していた。
「そういえば、あの子が立ってたところって……」と考える。
千紘には一つ年上の幼馴染がいた。千紘は幼馴染をマサくんと呼んでいて、千紘もちーちゃんと呼ばれていた。でもマサくんの本当の名前も苗字も覚えていない。
隣の家に住んでいたマサくんとは、物心ついた頃から一緒に遊んでいて、お互いの家もよく行き来していたほど仲が良かった。
あの頃の千紘も今と変わらず、友達にはっきりものを言う事が出来ず、周りに合わせておどおどしている子供だった。クラスメイトの前では大人しく、あまり感情も見せなかったが、マサくんの前でだけ素直になれた。学校では泣いたことがないのに、マサくんの前ではすぐに泣く、泣き虫の女の子になった。そんな千紘をマサくんは可愛がり、いつも守ってくれた。
ただ、千紘が小学校4年生、マサくんが小学校5年生の時に、マサくんの家が遠くに引っ越しをしてしまい、それ以来会っていない。
マサくんは引っ越しが決まってからは急に乱暴になり、下校途中で千紘を見かけると、後ろから千紘のランドセルを突き飛ばすようになった。
千紘はマサくんのその行動に、胸の奥がぎゅっとなった感情を今でも覚えている。
そして当時の千紘はその感情をうまく表現することができなかった。
マサくんの行動はだんだんとエスカレートし、千紘も怒りと恐怖心だけが明るみになって「早く引っ越せばいいのに!」と、マサくんから逃げるように生活しだしたのを覚えている。
そして結局、千紘はマサくんに「さよなら」を言う事が出来なかった。
そして再度、千紘は「そういえば、あの子が立ってたところって……」と考える。
「もうすっかり忘れていたけれど……まだあるのかもしれない。明日見に行ってみよう」
千紘はそう独り言を言い、眠りについた。
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