18

3/3
211人が本棚に入れています
本棚に追加
/72ページ
 良い旅館だった。決して高級というわけではないが隅々まで気配りが行き届いているようで、非常に居心地がいい。  紗香は少し酒に酔ったようで部屋につくなり座布団の山に突っ伏して眠った。しばらくして夕食の時間になると目を覚まし、伸びをした後に「飲むかぁ」と呟いた。  夕食は食べきれるか不安になるぐらいの量だった。人よりはよく食べるほうだと思っているが、心配なのは目の前の女だった。目を覚ました直後の発言からしても、酒ばかり飲んで食べることをしない可能性がある。酒飲みとはそういうものだ。  だがそれは過剰な心配だったようだ。彼女は酒を飲みながらもよく食べた。普段はそんなに食べる印象はないが旅先での食事はまた違うのかもしれない。  他愛のない会話をしながら食事をしていたが、ふと彼女は何かに気付いたように箸を止めた。そして、少し眉を寄せながら口を開く。 「もしかしてこれって新婚旅行だった?」  そう言われて唖然とした。言われてみればそうなのかもしれない。 「そんなつもりはなかったが、そうなるんだろうか。新婚旅行なのか、これって」 「しまったね。パーッとモルディブとか行けばよかったかな」  紗香は真剣な顔で悩みだした。こういう時は注意が必要だ。下手に同意すれば彼女は本当に計画しかねない。つい先日、失敗してしまったがために俺は今ここにいる。 「いや、普通の旅行だ。そういうことにしよう。そもそも結婚も偽装だしな。特に意味はない」 「情緒のないことを言うじゃない。たとえ偽装でもせっかく結婚したんだからそこに面白味を感じてみようよ。ほら、口説いてみたら?」 「そうは言ってもな……」  ふざけた様子の紗香に対して皮肉をお返ししようと口を開きかけたが、直前でやめた。  思いのほか楽しそうに過ごしている彼女を前にして気が引けていたが、せっかくだから少し事件に踏み込んでみてもいいのかもしれない。それがこの旅行の元々の目的だ。  しかし、どう切り出したものか。悩みながらしゃべり始める。 「いや、そうだな。じゃあ、子供の頃のこととか教えてくれないか。どんな子だったんだ?」 「私に興味が?」  それはどこか試すような物言いだった。『口説く』というよりは『探る』ような俺の質問に少し冷めた様子にも見えた。旅行で浮かれていた紗香が引っ込んで、いつもの彼女が前に出てきたような、そんな印象を受ける。  妙な罪悪感を覚えながら俺は答えた。 「偽装でも妻だからな。興味はあるよ」  紗香は少しだけ悩む素振りを見せながらも「何が聞きたい?」と言った。  思えば彼女の昔のことは何も知らない。意識的に彼女に興味を抱かないようにしていたから。紗香との契約結婚で殺人犯が炙り出せれば、そして沙紀の死に関連する情報が少しでも手に入ったら良いと、それだけを思っていた。  一緒に暮らしはじめて、彼女のことを知れば知るほどに今の結婚生活は続けられなくなるだろうと思った。契約結婚は彼女にとって利があることとはいえ、彼女に嘘をついていることにどこか負い目があった。そのためか、余計な情が芽生えることを恐れていた。何があっても彼女に話すわけにはいかないのだから。  でも、いつまでもそんな中途半端な態度でいることはできないとも思い始めていた。これはただの契約結婚じゃない。周りで殺人事件が何度も起きて、俺自身も襲われている。そのことに彼女は心を痛めていた。はっきりとは見せないけれど、そういう心情を隠そうとしていることに気付いてしまった。  思っていた以上に彼女の心根はまっすぐで、そして周囲は酷い有様だった。彼女が今日までに感じてきたことを想像することもできない。そして、それを無視することもできなくなっていた。  ここ最近は着地点が見つからないままにふわふわと空中を漂っているような気分だった。  誠実に、彼女と向き合って話す時間が俺には必要だ。彼女のためとは言わない。俺のためだ。潜入捜査という大きな嘘をつきながら、それでも――。 「せっかくの旅行だし、楽しかった思い出を」  だから、せめて楽しい思い出から教えてもらえればと思った。
/72ページ

最初のコメントを投稿しよう!