その1

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その1

今私は子供3人と旦那と5人家族です、、、 これだけを聞けば、よくある一般の家庭ですねと言われます。 しかしこの何の変哲もない普通の家族になるまでの道のりは決して平坦ではなかった、、、 私の人生、真似できますか? そんな人がいたらぜひ会いたいです! 私は1985年の春に尼崎で生まれました。 3人兄弟の真ん中です! 両親の意向もあり、幼稚園の頃に今の土地に引っ越してきました。 幼稚園の頃は友達とよく遊び楽しかったのを覚えています。 小学生になった途端に、人生は激変しました! 小学生にもなると、給食があります。 昔は牛乳にコッペパンなどが定番でした、、、 しかし私は大の牛乳嫌いで一滴も飲めませんでした、、、 その上小学1年生のときの担任は、「なんでのめないの!!飲むまで帰しません!!」などみんなが食べ終わり次の授業が始まるのに、決して見逃してくれません。 挙句の果てには給食ナプキンの上に給食をぶち撒けて、廊下で食べさせられました、、、 当初はなんでこんなことするのだろう?と疑問に思いましたが、私が悪いのかな?と思い、想いを親にもふせていました、、、 今思えば、完全なるパワハラだった、完全な虐待だったと理解できます! しかし小学生の私にはそんな概念がないので、このままやり通すしかありませんでした、、、 親にもなかなか相談できなかったし、どうしたらいいかわからず2年が経ちました、、、 そんな勉強でも大事な時期に全然集中してできなかったため、私は今でも勉強が苦手です、、、 しかし3年生になった頃、転機が訪れます! 男の先生だったのですが、私はまた牛乳飲めないから廊下で無理やり飲まされるんだなーと思っていたら、その先生は違いました! 「牛乳キライなの??じゃあ飲まなくてもいいよ!」 私は初めてそんなこと言われて戸惑いました。 しかしもう飲まなくてもいいんだ、とその安心感の方が勝り以後この先生なら信じていけると思いました! そしてその先生が、「牛乳ちょっとずつのめるようにしようかぁ?じゃあ今日はここまで飲んだらオッケーね!」と言われ、私もこれくらいならと意を決して飲むと、「すごいやん!よく飲めたね。えらいよー!」と初めて先生に褒めてもらいました!! あの時の先生の優しさは今も思い出に残ってます! なので、4年生になるときは大泣きしてその男の先生に泣きつきました! それだけ離れるのがイヤだったからです、、、 そして6年生の頃になると、すごく変わった女の先生が担任になりました! 教室にはいるやいなや、後ろの棚にはだしのゲンやブラックジャックなど戦争や人の良し悪しが分かるような本がズラリと並べられました! そして修学旅行の平和学習など、色々な社会勉強重視させる先生なんだなーと気づきました! ちなみにその先生は今はとても偉い地位にいらっしゃる先生になってます! やはりいい先生は出世するんだなと改めて思い知りました!昔の1年と2年を担当した先生の話は今は全く耳にしないですから、、、 そして無事卒業して、中学生になりました! 1年と2年はとても平和で楽しく過ごしたのを覚えてます。 しかし問題は3年生の頃です! クラス分けの時点で、イヤな女子が10人もいました、、、   嫌な予感は的中します!  私は突然イジメにあいました、、、 特になにかしたわけでもなく、数々の嫌がらせが私を襲います!! 学校に行きたくないから休むと親に言うと、「お前らは学校に行くのが仕事やろ!行かんかい!!」 と言われ、いやいやながらではありますが、学校に行きました! 担任も頼りない新任の教師のためアテになりませんでした、、、 私もずっと耐えてました、、、 しかしある時音楽の授業中、歌ってると、「お前が歌うとキモいねん!やめろや!」と言われたので、歌うことがとても大好きな私はそこで初めてブチギレてしまいました!! 揉み合いの喧嘩になり、みんなが仲裁に入って事は収まりましたが、それからはいじめが少し大人しくなりました、、、 しかし冷戦みたいな状況は変わらず、そのまま卒業。 中学時代に大きなキズ負ったまま卒業したので、今もその中学校を訪れるとお腹が痛くなります! 本当は行きたくないですが、私の子供が通っているので仕方無しに行ってます。 高校時代は充実してました!初めて彼氏もできました! しかしこの人とのお付き合いが後々つい最近まで(2021年初め)の腐れ縁みたいな形で付きまとうことになります、、、 それはおいおいお話します。 その彼氏とは高校3年間だけお付き合いしました。 性格はクズですが、とても顔がカッコよく嵐の松本潤とラルクアンシエルのhydeを足して2で割った感じです! 最初は友達の紹介でそんなふうに言われて、お付き合いしましたが、付き合ってるうちに高校3年生の頃には冷めてきました、、、 いつも会うときは遠い彼氏の家で私の住んでるところからだいぶ離れているので、片道1時間半くらいかかります、、、 私もうんざりしていましたが、初めて出来た彼氏ともありズルズル付き合ってしまいました。 高校3年生の頃は私の学校は就職活動に入り、会う回数も減ってきました。 それに相手は定時制の高校ともあり、あと1年後に卒業するというので、気持ちにもズレが生じ始めました。 そして私も彼とあわなくなり、SNSで誰か話し相手になってほしいなくらいの軽い気持ちで、いろいろ求めていました! その時に出会ったのが、ひとつ上の男性になります!今の旦那の前の旦那です! 年上で社会人でとても自立している大人という感じの人だったので、その彼氏への思いはその時には完全に無くなってました、、、、 しかし今の状態は二股状態、、、 これはいけないと思い、その男性に打ち明けると、その人は男らしく「俺が言ってやる!」とその彼氏に電話をかけました! 初めての修羅場です! そして彼氏は今までの私に対するダラダラした関係や全く自立していない自分と社会人で自立してる男性の姿にしぶしぶ別れを決意しました、、、 そしてようやく高校を卒業して、憧れのアパレル業界に足を踏み入れました!! 最初は華やかな世界を思い描いていましたが、その思いは最初の合宿でもろくも崩れ落ちました、、、 就職初日に新幹線に乗り、東京の方に向かいました! このときにもう社員の審査が入ってるとも知らずに。 着いた先は今までにない地獄の始まりでした、、、 一見華やかなアパレルとは打って変わって、軍隊みたいな訓練を受けました! 声出しや規則正しく動いたりとか、競艇学校みたいと最初思いました! 2泊3日という短い時間でしたが、あれほど地獄だと思った時間は今までにありませんでした! その研修が終わるときにはみんなが全国の部署に振り分けられます! 私は某百貨店勤務になりました! そして地元に帰り、次の日にはその百貨店に出勤、、、 休む間もなく仕事漬けでした! その間も前に書いた男性とはお付き合いは続いてました!もちろん結婚して幸せに暮らすものだと私は勝手に思い描いてました、、、 しかし仕事がキツすぎて、半年で辞めてしまいました、、、 上司のパワハラは当たり前。同期の子も出世しようと必死です! 今はもうパワハラなくなったと風の噂で聞きました。 その時もその男性に涙ながら今までのツライ経験を吐露して、仕事を辞めました! そしてそのやめた次の日に自分の好きな甘いものを買いにシュークリーム屋さんに行きました。 その時にチラッと目に入ったアルバイト募集のチラシ見て、私は「これまだ募集してますか??」と聞くと、「してますよ!!」と言われ、じゃー明日面接に来てね!!と言われ、川が流れるようにそこのアルバイトが決まりました! 神様は見捨ててなかったんや~と初めて運の流れに気づきました! まさに捨てる神あれば拾う神ありです! そしてそこに1年半ほど勤めた後にその男性の結婚が決まりました! 地獄からの急転、幸せの絶頂に私はいました、、、 そして子供も授かりました! その妊娠中にまたあの元カレから一報が来ました、、、 その時に実家の方に電話があり、私は直接出てませんが、その時にいた妹が今の現状をズバズバ言ってました、、、 「お姉ちゃん、結婚してもうお腹に子供おるよ」 さすがにそれにはビビってそれ以上は聞いてきませんでした、、、 捨て台詞のように、お幸せにと、、、 そして2007年7月2日、2954グラムの女の子が生まれました! その男性(以後ゴリさん)は嬉しいそうに抱きかかえて、変な男が寄り付かないように女子校に行かすとか、近づく男は全部チェックするとか溢れんばかりの溺愛ぶりでした! そして今の会社では将来が不安だから、ちょっと給料の高いところに転職するわと二人で相談してました、、、 後々これがあんなことになるとは夢に思いませんでした、、、 そして大企業の仕事に転職したことが転機でした。 最初は待遇もよく福利厚生もシッカリして社宅も完備。 この上ない環境でした、、、 しかし勤めて数ヶ月、ゴリさんに異変が生じ始めました、、、 社内で何があったかは知りませんが、家から持っていったホットプレートとがボロボロになって返ってきたり、暗い部屋で一人でぼーっと一点を見つめたり、今思えば前兆はありました、、、その頃は気づきませんでした。 そして2008年2月5日を向かえて、いつも通りゴリさんを送り出すと、昼頃に警察から電話がありました、、、 ゴリさんがビルから飛び降りたと。 当たり前ですが、最初は私も受け入れられず、何かの詐欺かと思いました! しかし警察が家に来て、娘を背に警察署に行くと、そこには変わり果てたゴリさんの姿がありました、、、 私は腰を抜かし、これ以上にない声で号泣しました、、、 なんでやー!なんでなんー! うわぁーーーーー! そして互いの両親が到着して、みんなもやはり同じ反応。 私はなぜ気づいてあげれなかったんだろう、、、 私は支えになれなかったの? 私は、、、 自問自答しながら、後悔の念が込み上げてきます! そしてゴリさんの携帯には遺書らしき言葉が。 「〇〇(私)と▲▲娘のおったこの部屋が好きだ。でももう無理、、、」 と一言だけ! 未だにゴリさんがどんな気持ちでなぜ亡くなったのかは不明です! そして私は22歳で未亡人のシングルマザーになりました。 告別式のときに原因は明らかになります。 その大企業の会社は執拗なパワハラを繰り返してはゴリさんみたいな犠牲者を出して、多額の慰謝料を出して口止めしてるところでした。 それが明るみになり、私はとうとうブチギレました! 中学校の頃とは比べ物にならないくらいに激しく罵倒し、今にも殴りかかる勢いでした! 周りの制止もあり、事なきを得ましたが、未だにその会社の人の顔は忘れません! 一生生霊として恨んでやるからなー!と言いました。 告別式で前の会社の人や学校の同級生など沢山の人が来て、なんで亡くなったんやー!なんでこんなアホなことするんやー!奥さんと子供おいていくなんて!とすごく悲しく叫んでいるのを覚えてます。 こんなに慕われてるのに、なぜ誰にも相談しなかったんだろう?と少し疑問にも思いました、、、 確かに前の晩、死にたいとぼそっと言ってたのは覚えてます! その時は死んだら私達どうなるの?というだけで、そこまで突っ込みませんでした。 あの時の前兆にもっと気づいてあげられればと未だに思います。 そして死亡届やら保険の手続きや引っ越しなど、淡々と進んでいき、私はこれからどうしたらいいのか全くわからないまま4年が過ぎました、、、 娘を育てなアカンと一念発起して、仕事をするも、どこも続かず、勤める先では陰口やいじめなどがあり、私の人生の歯車はどんどん狂い始めました、、、 まさに負のスパイラルに陥ってました、、、 寂しさを紛らわすように、買い物したり、いろいろ男の人と付き合ったり。でも何も変わりませんでした、、、 正直娘がいなかったら、私はもうこの世にいなかったと言っても過言ではありません! なので、娘を受け入れてくれる男性を探してたのかもしれません。 2011年8月7日!この日は今でも忘れません! この日に今の旦那(以後ター坊)と出会いました。 きっかけはいつもしていたSNSがきっかけです! 最初はいつも通り娘と一緒に外で出会い、今までの経緯を話しました、、、 これは今まで出会ってきた人も同じ手法です。 そして誰もがゴリさんの死に絶句します、、、 当たり前ですよね! そして娘が受け入れるかその人が娘を受け入れてくれるか見ます! やはり死別とはいい、1度バツがついてるので慎重になります。 最初はみんな私の体やお金を求めて来る人ばかりなので、この人も男の人だから、所詮そんなもんだろうと思ってました、、、 しかしこの人は違いました! 私の体どころかお金ももとめてこない、、、 えっ!何この人? これが第一印象です。 余りにも心配になったので、実家の妹に相談しました! もしかして私は魅力がないのかな? そう思わせるくらい不思議な人でした! 後々で聞きましたが、ター坊はそれまでに女性と全くお付き合いしたことがなかったみたいです。 そこから私の猛アプローチにより、ター坊と付き合うことになりました!! けどもう結婚はしないと思いました。 また同じようなことになったら耐えられないからです、、、 しかしター坊は血の繋がってない娘を本当の娘のように気遣い、娘も嫌がることなく過ごしてました。 保育所のイベント事も積極的に来てくれて、いつの間にか家族みたいになっていました、、、 しかし私はなかなか結婚に踏ん切りがつかず、思い悩んでいました。 そして当時は某大手運送会社のアルバイトをしていて、そこの一緒に働いてる人に相談すると、「娘ちゃんが物心つく前に結婚したほうがいいよ。そのほうがこれからの娘ちゃんのためだから!そんな人もう出会わないかもよ!!」と言ってくれました! それをきっかけに私の心は大きく変動します!! そして2013年3月14日に再婚しました! 私は嬉しい気持ちもありましたが、どこか今まで私が育てなアカンと思っていた心の重荷が落ちた安堵感の方が大きかったです! この4年間良く頑張ったと自分を自分で褒めたかったです。 しかしこの頃、私の体に病が発覚します、、、 それまでは自分の性格だと思っていましたが、ター坊が病院に行こうと勧めたので、渋々行きました。 そこは精神科の病院。 私は「双極性感情障害」と診断されました、、、 いわゆる躁うつ病です! それまではおかしいと思うことはありましたが、今の旦那はそこの病院に統合失調症で長年通っていたため、私の異変にいち早く察知したのでした。 やはりあの死別が原因だと言われました、、、 あの時のショックが脳の信号を狂わせて、このような病気になったと推測されます。 それからずーっと感情をコントロールするために投薬療法が始まりました! そして寛解の見込みは少ないというこの病気には、症状を和らげるくらいしかできないことも知り、私は落ち込みました。 病気との戦いは今もなお続いてます!
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