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「美月……」
別れを告げた相手の名を呼べば、瞬く間に脳裏に幸福の思い出が蘇る。
彼女と過ごした時間は、今まで生きてきた中でもっとも幸せで尊い日々だった。
実家に迷惑かけまいと、テスト期間中でも絶対に弱音を吐かず、懸命に凛として働く姿。
熱を帯びた視線に耐えきれず、縮こまって恥じらう表情。
癒しや安らぎを与えてくれる飾り気のない純真無垢な笑顔。
肌を重ねるときに見せる、自分しか知らない蕩けた眼差し。
幼い頃からの習慣で目と舌は異様に肥えていたはずなのに、彼女と並んで見た景色は実に色鮮やかで、どんなに高尚で文化的な場所よりもひときわ輝いて見えた。
彼女が愛情を込めて作ってくれた料理は、どんな高級料理にも叶わない、とても贅沢な味わいだった。
あげだしたらキリがない光り輝く日々を、自ら手放してしまった愚かさに容赦ない痛みが胸を抉ってきて、反射的に胸部を強く押さえた。
脳裏に浮かんだのは、二十歳の誕生日に贈ったネックレスを愛おしそうに見つめる彼女の表情。
自分で金を稼いでプレゼントを贈ったのは初めてだと、愛の言葉を囁いて打ち明けたら涙ながらに喜んでくれた。
胸が痛くてたまらなかった。共に歩めない未来を自らの手で選んでしまった。
すなわちそれは、そう遠くはない日に、自分ではない他の男に差し出すことを許したのも同然だ。
いつか近い将来、あのしなやかで綺麗な指に、自分が選んだものではない指輪が贈られる。
自分しか知らないあのキメ細やかな肌を他の男が暴くのだ。
さまざまな形の幸福を共有し、これから続く長い人生を共に寄り添い、幸せな家庭を築いていく。
……そうなってほしいと願って別れを告げたのに、考えれば考えるほど激しい嫉妬と未練がましい恋情が心臓を捻り潰すように襲いかかってくる。
それでも、失ったらどれほど苦しむかをわかっていても、一度芽生えた恐怖心に抗うことはできなかった。
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