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あと数日も経てばカレンダーがめくられる三月下旬、その日は特に冷える夜だった。
厳しい冬はとうに過ぎ、巷ではちらほらと桜の開花が宣言され、本格的に春の到来を迎えたというのに、視界の先に映る車窓は真冬のように凍え、結露で隙間なく曇っていた。
すっかり冷え込んだ駅のホームを降りた浬は、いくつもの列をなす改札をくぐり、地下通路を通り抜けて地上に降り立つ。その様相は、まるで重い荷物を背負って歩く囚人のようだった。
ふと虚ろな視線を上げると、星のない都心の夜空が視界の半分を覆った。その下で、無数の光を灯して誇らしげに輝きを放つ高層ビル群をぼんやりと眺めながら、本当に帰ってきてしまったのだと、唇を強く噛み締めた。
当てもなく歩を進めていくうちに運よく捕まえたタクシーへ乗り込む。
運転手に行き先を告げて背もたれに身体を預けると、夜の街を彩るネオンを窓越しに見つめた。
次々と横を過ぎ去る煌びやかな高層ビル群が、まるで闇の中にそびえ立つ巨大な古代生物のように思えた。
移り変わる景色を無言で見つめているうちにいつしか目的地へ到着したため、タクシーを降りて見慣れた屋敷へ近づいていく。
重厚な扉の前に立ち、幾分か逡巡してから中へ入ると、駆け寄ってきた使用人の秋吉が恭しく迎え入れてくれた。
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