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1-1 普通であること
水曜日の終業後、熱っぽくなり始めた身体を抱えて戸山誠が向かったのは、自宅マンションではなかった。
誠の自宅マンションは、この時間帯なら職場から20分以上かかる駅まで電車に乗り、そこから徒歩8分の1Kだ。26歳の独身会社員としては、ごく一般的な住居と思う。会社から、住宅補助が2万円出ていて、助かっている。
木々に囲まれた低層マンションのエントランスまで辿り着き、カードキーを翳して重厚なドアを開ける。顔馴染みのコンシェルジュに会釈をしてロビーを通り抜け、エレベータで向かった先にある部屋の玄関が見えると、思わず安堵の息が漏れた。
(間に合った)
誠は、オメガだ。3か月に1回の周期で訪れるヒートの時期が、今回もやってきている。コントロールピルのおかげで予定どおりだ。会社には明日からのヒート休暇を申請し済みだ。誠のヒートは重い方ではないので、日曜日まで休めば、月曜からは通常出勤が出来るはずだ。
ただ、もうすでに身体は熱を帯びている。分かっていたので抑制剤はしっかり飲んでいて、多分ヒート期独特の匂いは漏れていないとは思うが、それでも無事に部屋まで辿り着くまでは不安がある。ここは都内有数の高級住宅地にあるマンションで、アルファの住人が多い。ヒート期のオメガにとっては危険地帯ともいえる。それでも、自宅ではなくここに来なければならなかったのには、訳があった。
玄関で靴を脱ぎ、いくつかのドアを通り過ぎた先にある広いリビングからは、見慣れた夜景が見えた。外からの灯りが入ってきていて、照明をつけなくてもなんとなく家具の配置が判る。高台から臨む多分極上の夜景だ。でも今はそんなものには構っていられず、上着だけ脱ぎ捨ててカウチソファに寝そべった。
さっきまで熱っぽかった身体が、今は寒気を感じ始めた。誰かに温められたい、抱かれたい。そんな欲望が身体の底から湧いてくる。10年以上も付き合っているヒートではいつものことだが、誠にとっては辛い時間だ。目を閉じて耐えるしかない。
「誠!大丈夫か」
玄関の鍵が開く音がして直ぐに、自分を呼ぶ声がした。答えるのもおっくうで寝ていると、部屋の灯りがついた。自分に駆け寄る男の姿を確認し、ホッとする。
永原靖文、この部屋の主だ。大柄でバランスの良い身体を仕立ての良いスーツで纏わせた美丈夫。まさにアルファそのものの男だ。
「…おかえ、り…」
誠がなんとかそう言うと、彼も安堵したのだろう、大きく息を吐いた。
「コンシェルジュに頼んでおいたんだ。誠が帰ったら、すぐに連絡が欲しいって」
「…うん。ごめん。仕事中だった?」
「金曜までは休めるように、死ぬ気で何とか片付けた。土曜はここで仕事をするけど、日曜日は一緒にいる」
靖文は、誠の頬を撫でた。労わってくれる手が熱い。誠がその手に自分の手を重ねると、靖文の目にも熱が灯ったように見えた。汗ばんできたようにも思える。お互いの、甘い匂いが交わり始めたのだろうか。誠の中の抱かれたい疼きが増幅している。
「靖文…」
「うん」
「…して欲しい」
誠はそういうと、重ねた彼の手を取って、すでに充実している自分の下腹部へと導いた。指が少し動くと、すぐに反応してしまう。熱が再び上がり始めているようだ。
抑制剤を飲んでいても、多分誠の匂いはもう靖文に確実に届いている。その証拠が、今自分の目の前にある靖文の膨らみかと思うと、誠は悦びで頭がクラクラした。アルファを誘うオメガの匂い。自分の愛しい男がそれを感じてくれていると思うだけで、達しそうになった。
彼はアルファそのものだ。ヒート中のオメガを目の前にして、まともな状態でいられるアルファはいない。靖文の生唾を呑み込む音が耳に響く。欲望を帯びた瞳はもう隠せない。誠が今求めているのは、ケダモノの姿の彼だ。
「誠…」
後孔の疼きが止まらない。入れられたい。掻き回されて、突き上げられて、奥の奥まで掻き毟られたい。受け入れる為のヒート汁が後孔を濡らしている。今だけの特別な滴りだ。
靖文が、誠のシャツのボタンを外し始めるのを確認し、誠は自分で腰をよじってスラックスを脱いだ。その下のボクサーには、もう前後にシミが滲んでいた。そこを靖文に見せつけるように動くと、もうアルファは獣でしかなくなった。それを挑発し受け入れるオメガの自分は、最早魔物だなと心で自嘲しながらも、意識を飛ばして、二人で性の底なし沼にダイブしていくしかなかった。
金曜日の夜には、誠の大きな波は納まっていた。二日間に亘って渾身のセックスを続けたので最後の方は二人とも意識が無かったかもしれない。今も疼きが無いと言えば嘘になるが、気にしなければ平気だ。この後は小さな波がきても、何とか自分で遣り過ごせる。でもなんとなく、甘えたい気分だけは残っている。
靖文の方を見れば、さすがに疲れた風はあったが、元々精悍で充実した雰囲気をのアルファなので回復も早いようだ。バスローブを羽織っただけの逞しい身体が眩しい。
落ち着いてしまえばいつもの調子に戻る。もう靖文と付き合い始めてから4年目だ。多分、仲は良い方だと誠は思っている。
「これ何?」
誠は冷蔵庫を覗いて見慣れぬ箱を見つけた。靖文の冷蔵庫には時々すごいお宝が入っている。埋蔵され過ぎて消費期限が切れることもあるが、誠はそんな勿体ないことにならないように出来るだけパトロールすることにしている。
「開けていいよ」
「もう開けてる……あ、ミカンだ」
「美味そうだな」
「食べる?」
靖文が頷くと、巧誠は箱ごとダイニングテーブルまで持っていった。箱の中身は全て薄紙で包んである。見ただけでわかるご贈答用の特級品だ。
「『せとか』だって。誰から貰ったん?」
「知らない。秘書室で菅原さんに持って帰れって押し付けられた。これならそのまま食べられるからって。ミカンだったのか」
「またいい加減な…」
「親父や兄貴たちが持って帰っても同じだよ。俺たちが美味しく食べるんだから、ミカンも喜ぶよ」
「そうか」
「そうそう」
靖文はそう言うと、剥いたせとかを1房、誠の口に入れた。
「おいしかろう」
「…うん」
「じゃあ、それでいいんだよ」
靖文は、高級ミカン惜しげもなく剥いては食べていく。よく食べてよく動くを信条としている男は、常に食べっぷりがよくて見惚れる。誠も剥いて、靖文にあーんと食べさせた。
「誠が食べさせてくれると、やっぱり美味いよ」
「これ、当たりのミカンだ」
「違うよ。愛情がこもってるから美味いんだよ」
「…ばか」
明日は、靖文はここの書斎で仕事をするが、取り合えず一緒にはいてくれる。彼が仕事を持ち帰れるので、誠のヒート期はここで過ごすことに決めている。重要な仕事をする年上の恋人は、自分のために最善を尽くしてくれる。だから、誠は危険を冒してでも、ヒート時にアルファだらけのこのマンションに来るのだ。
恋人と過ごすヒート期は、単に辛いだけのものでないことを、誠はもう知っている。
オメガであると言っても、誠の日常生活は、マジョリティであるベータと特に変わったことがあるわけではない。違いと言えば3か月に1度のヒートが数日あるくらいで、それ自体もコントロールピルのおかげでほぼ管理出来ている。オメガを社会全体が受け入れる為の法律も整備されていて、プライバシーの保護はもちろん、ヒート休暇の保証やオメガバースに係る医療費の免除など、不利益が無いように手厚い対応がなされているので、困ったことは無い。
就職活動も皆と同じように行い、大学卒業後は機械製造を行う上場企業に就職し、経理部で働いている。実家を離れて都会で一人暮らしをする当たり前の26歳男子の生活をしている。
誠は、オメガを意識せず生きることを信条としてきた。オメガであることを言い訳にしないし、それを有効利用するつもりもない。その為に、人並み以上に努力したと自負している。
普通でありたいとずっと思ってきた。でも、わざわざ普通でありたいと思わなければならないということが、不満で不安だった。
でもある日突然、誠に自分の人生を変えるかもしれない恋人が出来てしまった。恋人は、永原靖文というアルファの男だ。
靖文とは偶然知り合った。社会人になって初の夏季休暇だった。帰省した帰りの新幹線の中で偶然が重なったのだ。
誠は、普段ならグリーン席なんていう贅沢は絶対にしないが、ピーク時で他に空席が無かったのと、ボーナスが支給されたばかりということもあって、アプリを使って予約をした。満席の中、乗り込んだ先の席には既に座っている男がいて、やってきた車掌に確認したら1時間間違えて予約していたことがわかった。
発車直前だったのでよく確認しなかった誠が絶対的に悪いのだが、そうはいっても意気消沈する。代わりの席も無ければ、品川まで立ったままかと半分以上諦めかけたところで、件の席の男が手招きをした。30歳くらいだろうか。大柄で整った顔立ちをした男だ。見るからに質の良いスーツを着ている。誠は傍まで行ってみた。
「隣、空いていますよ」
「えっ?」
「2席分予約したんだ。1つあげるよ」
「は?」
聞けば、男は出張帰りで、急に同行者が現地に残らなくてはならなくなったそうで、チケットをキャンセルする時間もなく、そのまま乗車したそうだ。
誠が逡巡していると、男は「いいから、いいから」と言って半ば強引に席に座らせた。ここまで来たらもはや遠慮するのも失礼と思った。でもそれ以上に、誠はこの男に興味が沸いていた。
ニカッと笑う顔に魅了されたのもある。正直言えば、好みのタイプだ。
誠は、子どもの頃にオメガの判定を受け、中学時代に自分の恋愛対象は同性だと自覚した。同性婚も当たり前になった今の時代、否定的に考える必要もなくなったが、マイノリティであるのは間違いが無い。
その上、多分この男はアルファだ。発するオーラがそもそも他の人間とは異なっている。誠は、もしかしたら自分がオメガだから惹きつけられているのかとも思った。だがそんな考えは、彼の隣の席に座りしばらくして、間違いであることがわかった。
話し始めて駅に着くまで、話題が途切れることが無かった。話す呼吸が全て合った。楽しいと思うことが同じだった。朗らかで気遣いを欠かさない隣の席の男、「永原さん」の人柄に惹かれていた。
品川に到着するアナウンスが流れた時、席を立ちたくなくなっていた。誠の小さな溜息を見逃さなかった男は、そっと膝に手を置いて、耳元で囁いた。
「俺も同じ気持ちだよ」
その時から今まで、二人は離れずにいる。
後で訊いたら、彼も自分に一目惚れだったそうだ。メガネでごまかし地味な服装をしているが、よくよく見ればとんでもない美人だと気がついた、とその晩のベッドで言われて赤面すると、「すぐ赤くなるのが、かわいいなあ」と抱きしめられたのが、今となっては懐かしい思い出だ。
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