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カラテの始まり
ウガンジュでの最初の嫁取り掛け試しが行われた日の夜も、チル-は大島クルウの小屋に稽古に通っていた。
稽古後には師であるクルウの夕食の支度をする。
配膳を終えたチル-は、今日の掛け試しの報告をした。
「なるほど、まあ予想通りの結果じゃな」
報告を聞いたクルウは特に驚く様子もなくそう言った。
「佐久川なき今、琉球に真のトーデの使い手などそうそうおらん。お前にはすでに儂のトーデの全伝を授けたからな。滅多に負けることはあるまい」
「はい、若い使い手と名高い武士たちと拳を交えましたが、あんなのでは相手になりません。拍子抜けしました」
「もっともいつの世も地に潜む竜はおるからな、油断はならんぞ。たとえばその松村宗棍という男」
チル-は大きく頷いた。
「奴が松村タンメ-ですね」
「おそらく間違いない。トーデ佐久川と共に北京に渡り、奥技を身に付けたのであろう。厄介な相手じゃぞ」
チル-は胸を張って応えた。
「心配ありません。今日も父が止めなければ、先生直伝の虎の手で勝負がついてました」
しかしクルウは険しい表情である。
「確かに虎の手は儂のトーデの極意中の極意じゃ。決まれば相手が何者であろうと倒すことができる。しかし奴がどんな手を使うかも知れんからな。十分に気を付けることじゃ」
さらに翌朝もクルウの小屋で稽古をした。。稽古後に朝食の準備や家事雑用を済ませたチル-は、家路についた。
今日はあの松村宗棍が身上書を持って訪ねてくるという。その事を考えるとチル-はなぜか胸の高鳴りを覚えた。
それがなぜだかチル-にはわからなかったが、おそらく闘志がそうさせるのだと自分を納得させた。
昼前に家に着くと、中から談笑する声が聞こえる。それは男女の声だ。
(え、まさか・・カミーが笑っている?)
「ただいま戻りました」
そう言って家に上がると父の呼ぶ声がした。
「おお、チルー戻ったか。松村様が見えているぞ。ご自身で身上書を持って参られた」
松村・・という名を聞いたチルーは胸の鼓動が早くなるのを感じた。
(どうしたんだ?落ち着けチルー)
チルーは深く呼吸をしてから座敷に向かった。
そこには松村宗棍と父と、そして父の隣にはカミーが座っていた。
それはにわかには信じがたい光景である。男性恐怖症のカミーが部屋から出て男の客と対面しているなんて。
「チルー、何をぼんやりしておるのだ。お客様にご挨拶しなさい」
「あ・・はい。あの、ようこそおいでくださいました」
渋々のようにチルーが挨拶した。
「いえ、どうも早くからお邪魔してしまいました」
松村宗棍が挨拶を返すが、それよりもチルーはカミーが気がかりである。
「カミー、あんた大丈夫なの?部屋から出て」
「ええ、今日はどうしたわけが気分がいいの。それで先ほどまで松村様から、北京の珍しい面白いお話を聞かせていただいてたのよ。松村様って本当に愉快な方」
あり得ないことである。松村宗棍はいったいどのような妖術を使ったのか。
「いつまでも突っ立ってないでチルーも座りなさい。今日は松村様がお前に正式に求婚しに来られたのだぞ」
父もいつになく上機嫌である。
しかしチルーは席に着くなり、ぶっきら棒に言った。
「あんた、どういうつもりなの?あたしに求婚するとか、冗談では済まないのよ」
「冗談のつもりは無いですよ。私は君を妻にしたいから求婚するのです」
松村宗棍はそう言って真っすぐにチルーの顔に目を向けた。
チルーは思わず目を逸らしてしまった。
「チルー、なんという口の利き方だ。失礼だぞ」
父がチルーを叱りつける。
「おねえちゃん、照れてるんだわ。だって顔が赤いもん」
カミーがくすくすと笑う。
「わたし、おねえちゃんが松村様のところへお嫁に行くの賛成よ。おねえちゃんが嫌なら私が行くわ」
「あんた、本当に大丈夫?熱とか無い?」
(カミーも父も何もかもがおかしい。これも松村”タンメー”の策のひとつか?)
「あんた・・いえ、松村様。あなたにお話したいことがあります。お父様、カミー、しばらく席を外してもらえませんか」
「おお、これは気が利かなんだな。カミー、ふたりきりになってもらおう」
「松村様、おねえちゃんも、ごゆっくり」
父もカミーもどこか好意的であるが、チル-の用件はもちろんそのようなものではない。
ふたりきりになると、松村宗棍の方から話を切り出してきた。
「話というのは何かな?」
「あんた、松村タンメ-でしょう」
松村宗棍は少し驚いた顔をした。
「タンメ-(お祖父さん)か。子供のころ、やたら年寄り臭かったのでそう呼ばれていたな。よく知っているね」
「私のトーデの師匠は大島クルウだからよ」
その言葉を聞いた松村は、今度は本当に驚いた顔になった。
「そうだったのか。道理でチル-さん強いはずだ。先生はお元気ですか」
「ええ元気よ。先生からあんたのことは聞いている。子供のころからトーデ佐久川門下一の知略家だったってね。あんたどうやってカミーを手なずけたの?」
「手なずけるだなんて、そんな特別何もしてないよ」
「そんなはずはない。カミーはあんたが敵討ちの邪魔をした武太に乱暴されそうになって以来、男が怖くて外出もできなかったのよ」
「君はたぶんカミーちゃんのことを誤解している。確かに彼女は男への警戒心が過敏になっているかも知れないけれど、自分への害意の有無がわからないほどじゃないよ。私には害意が無いから打ち解けてくれたんじゃないかな」
(誤解?カミーが生まれたときからずっと一緒だった私が?)
「まあそのことはいい。あんた私といつ勝負する?」
「勝負?やらないよ。だいたい結婚を申し込む相手を殴るなんて、おかしいじゃない」
「何言ってるの。それが私の結婚の条件だよ。あんたがやらなくて、あたしが他の誰かに負けたなら、あたしはその男のところへ嫁に行くんだよ」
松村は声を上げて笑った。
「あはは・・ああ失礼。君は負けないよ。私は琉球の武士の手筋はだいたい知っている。君が手こずりそうな相手は、そう、ひとりだけ居るかな。那覇の具志堅親方くらいだ。彼が出てこない限り君は負けない」
具志堅親方の噂はチルーも聞いている。なんでも暴れ馬の首を手刀の一撃でへし折ったそうだ。しかし、チルーは先日も噂だけは物凄い男たちを汗ひとつかかずに打ち破ったので、気に留めてもいなかった。
「じゃあ、その具志堅て人が出てきたらどうするの」
松村は初めて真顔になった。
「具志堅親方が出てきて、もし君が負けたなら、その時は私も動くしかないだろうね。でもそれ以外の相手なら君は負けないし、具志堅親方にだって勝つかもしれないだろう」
「それであんただけ闘わずに済むと思っているわけ?本当にあんた、知略家というかずるいよね」
「私は人と争うのは嫌なんだ。殴り合いなんて、愚か者のする事だ」
(何を言ってるんだ、この男は)
チル-は蔑みのこもった口調で言った。
「あんた、トーデの使い手じゃない。人をぶん殴るのがあんたの本分でしょう」
「トーデではない。カラテです」
松村はそう言った。
「カラテ?」
「そう、カラテ。まあ唐手を読み替えただけなんだけどね。私が佐久川先生や北京で師事したイワ-先生から学んだトーデに、薩摩示現流の剣術の理合いを加味して、さらに工夫を加え作り上げた琉球独自の拳法。それがカラテだ」
「それがトーデと何が違うというの?」
「私は示現流から一撃必殺の思想を学んだ。それを自らのトーデに取り込んで、ひとまずの完成を見た。でもね、そこで私は気がついたんだ。人を殴り殺してよしとする拳法など、所詮は小人(器の小さい愚者の意味)の武術さ」
「あんたのカラテは?」
「君子人の武術。人を殴らず、自分も殴られない。そのための拳法がカラテだ」
初めて聞く武術だ。人を殴る稽古をしながら人を殴らない拳法?チル-には意味がよくわからないが、その言葉には奥深い何かがあるように思えた。
「うーん・・あんたの言うことはまだよくわからない。でもあんた、あたしと闘わないわけにはいかないよ。だってあんた、あたしの先生に恥をかかせたでしょう。師の恥は弟子が濯がなきゃいけないもの」
「ああ、その件があったか。いずれきちんと先生に詫びに出向くから勘弁してよ」
「それは先生しだいだね。いいでしょう、今日のところは帰って。いろいろ考えてみたいの」
「わかった。じゃあ今日はこれで失礼する」
そう言って松村が立ち上がろうとしたところで、チルーが呼び止めた。
「あ、ちょっと待って。ひとつだけお礼を言わせて」
「お礼?なんだっけ?」
チルーは深々と頭を下げて言った。
「カミーのこと、ありがとう。カミーの笑い声なんて聞いたの、三年ぶりだった」
※作者より。
琉球の拳法・カラテ(唐手=空手)がいつ発生したのかについては諸説あるが、トーデ=中国拳法ではない琉球独自の拳法としてのカラテは、この松村宗棍からであると作者は考えている。一般に空手の源流は、首里手、那覇手、泊手の三つであり、そのうち首里手の祖が松村宗棍であるといわれているが、作者はそんな小さなものではないと考えている。なぜならば、この物語の当時には泊手の祖である松茂良興作はまだ幼児であったし、那覇手の祖・東恩納寛量はまだ生まれても居なかった。したがって琉球拳法=カラテというムーブメントを最初に生み出したのは、この松村宗棍であると考えて間違いないと思うのである。
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