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熊の手を持つ人殺し
具志堅親方はたいへん禁欲的な修行者であった。彼の日常はすべてこれ鍛錬であり、修行である。
早朝に起床すると、布団の上で座ったまま両腕を前後左右に何度も動かすことから一日が始まる。
家来の者が朝食の準備をする間にも、庭に出てトーデの型を鍛錬する。食事が用意されると庭先で手早く済ませ、再び稽古である。型稽古の合間には力石を何度も持ちあげて、筋肉の鍛錬をする。
このような稽古を一日中繰り返し、日がずいぶんと傾き、自分の影が縁側に届くほど長くなるのを見てようやく、一日の稽古を終えるのだ。
与那嶺チルーとの掛け試しの当日も、早朝からの稽古は欠かしてはいなかった。家来の儀間に、試合のための衣装の準備を言いつけると、庭に出て稽古を始める。
三十年あまりの人生を、武術の修行に費やしていた具志堅親方は女を知らなかった。もちろん人一倍の身体であるから、情欲に悩まされる夜もあった。しかしただひたすらに武の道を歩み続ける決意の具志堅親方にとって、女は修行の邪魔であると遠ざけていたのである。
このように修行一筋で世事に疎い具志堅親方が、与那嶺チルーの噂を聞いたのはごく最近の事であった。
噂では彼女の父親が、稀に見る美少女である娘を嫁に出す条件として、娘に打ち勝つことを掲げたため、琉球中の腕自慢の武士が彼女に挑み、ことごとくが手も無く打ち負かされているのだとか。
嫁取りなどには興味が無いが、それほどの使い手ならぜひ手合わせしてみたい。それだけが具志堅親方をウガンジュの広場に向かわせた動機だったのだ。
しかし、ウガンジュの広場でチルーの姿をひと目見たとき、具志堅親方の身体にこれまで感じたことの無い衝撃が走ったのである。
(この世には、これほどまでに美しい女が存在するのか・・・欲しい。この女がどうしも欲しい)
生まれて初めて、武術の強さ以外にどうしても手に入れたいものが出来たのだ。
もしも、チルーが他の男に抱かれるような事になったなら・・それを想像するだけではらわたが煮えくり返る。
(なんとしても、チルーを自分のものにするのだ)
今や具志堅親方を朝稽古に駆り立てている動機はチルーへの情念だけであった。
その時である。何やら言い争う声が聞こえてきた。ひとりは儀間の声だ。
(おかしいな。いったい何事だ)
具志堅親方は家に上がると、声がする玄関の方に向かった。
「騒がしいぞ。どうした」
玄関に続く廊下の足元がぬめる感触がする。よく目を凝らすと、その辺りは大量の血で濡れていた。
そしてその先には、具志堅親方のふたりの家来が倒れていた。
「儀間っ!桑江っ!何があった」
儀間は喉の皮膚が破れ、血が噴き出していた。もはや虫の息である。
もうひとりの桑江は腹から腸をはみ出させ、すでに息絶えていた。
(刃物か?いや違うぞ、この傷は手によるものだ。トーデの貫手だ)
素手の指先で、皮膚や肉を貫くとは、恐るべき腕の持ち主がどこかに潜んでいる。
具志堅親方は全神経を集中して気配を探った。
「ここだ、庭に来い!」
聞き覚えの無い男の声が屋敷に響いた。具志堅親方は廊下を走り抜け庭に向かった。
庭には見覚えの無い、体格の良い若者が立っていた。ぼさぼさに伸びた髪、日に焼けた肌。彫が深いが粗野な顔立ち。
そしてその両手は血にまみれていた。まるで肉食獣である。
「貴様か!私の家来を殺したのは」
「殺す気は無かったのだがな。邪魔をしてお前に取り次いでくれなかったから止む無くだ」
「ふざけるな。いったい何のつもりだ。俺を具志堅と知っての乱暴狼藉か?」
「もちろんだ、具志堅親方。お前が獲得したチル-への挑戦権を放棄しろ。さもなくばお前にも家来の後を追わせてやる」
もとよりそのような脅しに怯む具志堅親方ではない。ゆったりと自然体に構えているが、全身から凄まじいばかりの闘気を発した。
「貴様は何者だ」
その男は両足を肩幅に拡げて少し腰を落とすように身構えた。
「俺は泊の武樽だ。やはりやるしかないようだな」
「ぬかせ人殺しめ。家来の仇を討たせてもらうぞ」
言うやいなや、具志堅親方は巨体に似合わぬスピードで武樽に突進すると、凄まじい連続突きを繰り出した。その突きの一発ごとに必殺の威力が込められている。
武樽は両腕を身体の前で円を描くように使って、具志堅親方の猛攻をことごとく打ち払う。
具志堅親方の攻撃に一瞬の間が生じたのを武樽は見逃さず、左右の貫手を親方の首めがけて突き込んだ。
その攻撃に凄まじい殺気を感じた具志堅親方は、慌てて飛び退いたが首筋に鋭い刃物で切られたような痛みが走った。
その部分に手を当てると、掌がべっとりと血で汚れた。
(傷は浅いが危なかった。飛び退くのがあと少し遅れていたら、頸動脈を切られていたぞ)
具志堅親方は生まれて初めて命の遣り取りをする戦闘に臨んでいることを、今さらながらに知った。
具志堅親方は秘伝の血止めの呼吸を用いながら、態勢を立て直す。
武樽は両手をカマキリの鎌のように構えて、慎重に歩み寄ってくる。
それは具志堅親方が初めて見る拳法であった。
(長引かせると危険だ。一気に片をつけてやる)
具志堅親方は突然、武樽の居る場所とは違う方角に向けて跳躍した。そして三間(5メートル以上)ほど飛んだ先にある縁側に着地すると、そのまま方角を変えて武樽に向かって飛ぶ。
秘技・三角飛びの極意である。
意外な方向からの飛び蹴りは武樽の肝を冷やしたが、なんとか身を伏せてかわした。
しかし、かわされるのは具志堅親方の計算だったようで、武樽はそのまま上にのし掛かられて、身動きが取れなくなった。
「手こずらせおったが、これまでだ」
具志堅親方は、武樽の首根っこを左手で押さえつけながら言った。
「武樽とやら。これ程のトーデを身に付けるには、気の遠くなるほどの修練が必要だったろうに。なぜつまらぬ人殺しに成り下がった」
武樽は押さえつけられたまま不敵な笑みを浮かべた。
「お前と同じさ、チルーだよ。あれは男を狂わせる魔性の娘だ」
具志堅親方は厳しい顔で言った。
「チルーは諦めろ。貴様は人殺しとして裁かれるのだ」
「ふふふ・・甘いな具志堅親方。もう勝ったつもりか」
武樽は右手で具志堅親方の肩を掴んだ。
指先が肩の肉にずぶずぶと食い込んで行く。
「ぐああっ!」
あまりの激痛に、具志堅親方は武樽から手を離して飛び退いた。その肩口から大量の血が吹き出している。
ゆっくりと立ち上がった武樽の右掌には、千切り取られた具志堅親方の血まみれの肩の肉が握られていた。
「驚いたか具志堅親方。これが福州で三年間、血の滲むような修練で会得した熊の手・肉千切りの秘術だ。お前の左腕はもう使い物にならん」
「くそっ!貴様殺してやる」
具志堅親方は最後の死力を奮った突きを放った。
「もう遅いわ」
武樽はその攻撃を右手の手刀で受けると、そのまま指先を具志堅親方の首に突き刺した。
噴水のように血が噴き出す。
具志堅親方は崩れ落ち絶命した。
その場には全身にかえり血を浴びた、赤鬼のような武樽がひとり立っていた。
(この姿ではチルーの所には行けんな。風呂と親方の衣装を借りるとするか)
武樽は自らの着物を庭に脱ぎ捨てると、そのまま邸内に上がった。
(待ってろよチルー。お前を娶りに行くぞ)
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