掛け試し(カキダミシ)

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掛け試し(カキダミシ)

 その日の夕刻。那覇の辻(チージ)という遊郭の立ち並ぶ花街の通りの片隅にふたりの男が立っていた。  着物の上からでも筋骨隆々であることがわかるこの男たちは、武樽(ンダルー)武太(ンター)という、評判の悪いならず者兄弟である。  兄弟は何かを物色するようにあたりを見回していた。ここはもちろん花街であるからナンパなどではない。  掛け試し(カキダミシ)の相手を探しているのである。  掛け試しとは言うなれば当時の不良少年(ヤンキー)のタイマン勝負のようなものだ。  この辻という花街は、不良少年たちのタイマン勝負の名所でもあったのである。 「兄貴、あいつはどうだ」  弟の武太が言った。 「あれはダメだ、線が細すぎる。もっと腕っぷしに自信があって、なお且つ銭持ってそうな奴を探せ。おお、あいつがいい」  兄の武樽の視線の先には、大股で通りを歩く若くて体格の良い男がいた。身なりもなかなか洒落ている。  武樽は「おいっ」と声を上げると同時に右手の拳を握り自分の顔の前まで上げて、手の甲をその男に向けた。  これが掛け試しの作法である。  男は武樽の所作に気付くと、にやりと笑みを浮かべ近づいてくる。  そして武樽と同じように右手の拳を握ると、手首を武樽の手首に引っ掛けて言った。 「単なる腕比べか?それとも銭目当てか」 「お前、花代は持っているか」武樽が尋ねる。 「持たずに辻になんか来るかよ。いいだろう、お前が勝ったら懐銭ぜんぶくれてやるぜ。俺が勝ったらお前のを貰う。それでいいか」 「いいだろう」 「その連れは誰だ」 「これは弟だ。心配するなこいつには手を出させねえ」 「わかった。いくぞ」 「おお、来い」  これが勝負開始の合図である。  男は武樽の右手を素早く掴むと、腕力で押さえつけようとした。  しかしすかさず武樽は右足を男の下腹部に飛ばす。男の喉がぐうと音を立てた。  前かがみになろうとする男の鼻面に、武樽は強力な正拳(テージグン)を叩きこむ。  鼻っ柱を叩き折られた男は、そのまま地面に音を立ててひっくり返った。これで武樽の勝ちとなる。 「んん・・・くそっ。お前たち、トーデを使うのか」  ひっくり返った男が呻くように言った。  トーデとは首里、那覇、泊を中心に、近年流行している中国伝来の拳法である。もともと交易で栄えたこれらの地域では、渡来してきた唐人(中国人)より拳法の手ほどきを受ける者も無くはなかったが、それほど流行りはしなかった。琉球では古来より手組というレスリングや相撲のような手(ティー=武術)が好まれていたからである。  トーデが本格的に流行る最初のきっかけとなったのは、18世紀後期に公相君なる中国武術家が多数の弟子を引き連れて琉球にやってきたことからである。  公相君は一見すると痩せた弱そうな人物であったため、侮った琉球の力自慢の若者たちが勝負を挑んだ。  勝負を快諾した公相君は、片方の手を前に突きだし、もう一方の手を乳の下あたりに引いた奇妙な構えを取った。  力自慢の若者たちが得意の手組で組み付こうとしたところ、公相君は目にも留まらぬ速さの突き、蹴りで彼らを瞬時に倒してしまったのである。  この出来事は琉球の手(ティー=武術)を好む当時の若者たちには衝撃であった。現代風の格闘技用語でいうなら、グラップリングからストライキングへの目覚めである。  この出来事を目撃した若者たちの中には、公相君への弟子入りを志願する者も居た。  特に熱心だったのが首里の佐久川という青年である。佐久川は公相君より拳法の型を習い、また後には中国に渡り武術家イワーに師事し拳法を修めた。  琉球に戻った佐久川は、幾多の勝負に打ち勝ち、トーデ(唐手)佐久川と勇名を馳せるようになった。このようにして中国より伝来した拳法=トーデは琉球に根付き、また琉球独自の工夫を加え後の空手へと発展することになるのである。  武樽はかつて泊に漂着した唐人より拳法の手ほどきを受け、独自に工夫したトーデを身に付けていた。 「いかにも俺はトーデの使い手だ。しかし約束は約束だ。銭は貰ってゆくぜ。おい」  武樽の指図を受けた武太は、倒れている男の懐より銭の入った巾着を奪い取った。  そしてふたりは、いつの間にか集まっていた野次馬たちをかき分け、辻の花街通りを歩いて行った。  辻の遊郭には非常に格式が高く、名士の紹介と複雑な仕来りを乗り越えなければ遊べない高級店と、いくらかの銭さえ払えば簡単にジュリ(遊女)を抱くことが出来る低級店の二種類がある。ならず者兄弟が向かったのはもちろん後者の店である。  掛け試しで手に入れた銭は思わぬ大金であったので、ふたりは思う存分に酒肴を味わいジュリを抱いた。  そして翌朝、すっかり銭を使い果たしたふたりは初夏の暑い太陽に照らされた辻の通りを歩いていた。 「兄貴、今夜も掛け試しで花代を稼ぐのかい?」  武太にそう尋ねられた武樽は腕組みをしてしばらく考えてから答えた。 「ジュリを抱くのもいいが、ひさしぶりに生娘を抱きたくねえか?」 「生娘!いいね、兄貴。しかしどこの生娘をいただくんだい?」 「そうさな・・・最近評判なのは与那原の反物屋、与那嶺の姉妹は揃いもそろって人形のような美少女らしい。俺たち兄弟で人形姉妹に男を教えてやろうぜ」 「しかし兄貴、与那嶺の姉妹といえば姉のチルーは手組では屈強の男衆も敵わない剛力だともっぱらの噂だぜ。面倒じゃねえか?」  武樽はせせら笑った。 「剛力と言っても所詮は女の力自慢さ。手組の強さなど俺のトーデの敵じゃねえよ。早速今から与那原に出向いて様子を探ってみようじゃねえか」
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