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狂恋の拳鬼
同じ日の朝、大島クルウの小屋では夕刻に執り行われるチル-と具志堅親方との掛け試しに備えて、仕上げの稽古が行われていた。
「具志堅親方はもしかすると、あの牛殺しの奥田にも匹敵する当て力の持ち主じゃ。一発でも攻撃を受ければ、いくらお前でも危ない。とにかく動き回って相手の攻撃が途切れる隙を狙うのじゃ」
「はい、先生」
「儂はこれまでお前の掛け試しについては心配しておらなんだが、さすがに今日の相手は別格じゃからのう。ウガンジュに顔を出そうと思う」
大島クルウがチル-の掛け試しの場に現れることは、確かに今まで無かったことだ。
「本当ですか。先生に見守っていただければ百人力です。私、必ず勝ちます」
チル-は嬉しそうに言った。
「うむ。今日はもう帰って夕刻までゆっくり休むが良い。後ほどウガンジュで会おう」
チルーが帰った後、大島クルウは秘蔵の泡盛の瓶を開けて、湯呑でちびちびと飲りながら考えていた。
(具志堅親方の手筋を儂は知らんが、噂通りの実力ならチルーは敗れるかもしれんな)
そう考えている大島クルウの口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。
(具志堅親方は真面目で善良な人物であると聞く。チルーは敗れた方が良いかもしれんの。具志堅親方なら身分も申し分ないし、チルーを幸せにしてくれるだろう)
大島クルウは湯呑に泡盛をつぎ足した。
(松村タンメーもどうやらチルーに惚れておったようじゃが、今回ばかりはあの小賢しさが仇となったな。チルーが具志堅親方の嫁になれば、ふふふ・・・チルー、儂にとってはそれが一番の奴への仕返しかもしれんぞ)
湯呑を口に運び、泡盛を飲み干したそのとき、大島クルウは人の気配に気づき、声を上げた。
「扉のむこうに居られる御仁、この大島クルウに何か用かな」
ゆっくりと、小屋の木の扉が開く。逆光に人影が浮かんでいる。身分の高い身なりの男だ。
「このような汚い小屋に、何用でしょうかな」
その人影は小屋の内部に歩を進めながら応えた。
「大島クルウ、ひさしぶりだな。俺の顔を見忘れたか」
大島クルウは目を細めて男の顔を凝視した。
「・・・お前は!」
「俺は泊の武樽だ。三年前は世話になったな」
「琉球に戻っていたのか。いったい何をしに来たのだ」
「まあ、そういきり立つな」
武樽は大島クルウの対面にどっかと腰を下ろした。
「ひとり酒か。付き合わせてくれよ。一杯馳走しろ」
大島クルウは隙を見せぬよう注意しながら、自らの湯呑に泡盛を注いで武樽に差し出した。武樽をそれをゆっくりと味わうように口にする。
「旨い。いい酒だな。ところで今日お前を訪ねたのは、第一には礼を言いたかったからだ」
「礼だと?」
大島クルウは警戒を崩さず聞き返した。
「そうだ礼だ。三年前、この芭蕉園でお前に敗れてから俺は生まれ変わったんだ。無為に生きていた俺に初めて生きる目的が生まれた」
「ふん、それは良いことじゃの。真面目になったのか」
「ああ、俺は自分でも驚くほど真面目で一途になったよ。お前のおかげだ。それともうひとつ礼を言いたいのは、俺の妻を一人前に仕込んでくれたことだ」
「お前の妻だと?」
武樽は湯呑の泡盛を一息に飲み干すと、大声で笑い始めた。
「あはははは!ちょっと気が早かったかな。しかし、今夜だ。今夜、お前の弟子の与那嶺チルーは俺の妻になる」
「お前、いったい何を言っておるんじゃ。夕刻のチルーの嫁取りは具志堅親方じゃ。お前の出る幕ではない」
「具志堅親方?あはは、奴はこの嫁取りの舞台から降りたよ。今宵俺が具志堅親方に代わってチルーをいただく」
そのとき、大島クルウはようやく武樽から漂う異臭に気付いた。
「武樽!お前、血なまぐさいぞ。いったい何をしてきたのだ」
そのとき武樽が持っている湯呑に縦横のひびが走り砕けた。
握りつぶしたその破片を、武樽は大島クルウの顔面に投げつける。
大島クルウはその破片を避けて、そのまま床を転がり間合いをとろうとした。
しかし、武樽は間髪を入れず、肉食獣が獲物に見せる素早さで大島クルウに襲い掛かる。
(速い!三年前とはまるで別人だ)
必死で床を転がり逃げる大島クルウを、武樽の連続した貫手(伸ばした指先による突き)が追いかける。
大島クルウが貫手を避けた後の板張りの床には、まるで銃弾で開けたような穴が四つずつ残っていた。
貫手を避けながらなんとか立ち上がった大島クルウは、そのまま小屋の壁に向かって飛んだ。
壁を蹴飛ばした反動で武樽に飛び蹴りを見舞う、三角飛びである。
しかし武樽はその強力な蹴りを、両腕を使って苦も無くいなした。
大島クルウは、かろうじて両足で着地するが、三角飛びの勢いが強かっただけに着地の衝撃も大きい。
「ふふふ・・老いたな、大島クルウ。三角飛びなら具志堅親方の方が鋭かったぞ」
「武樽、具志堅親方をどうした?」
「奴が俺の嫁取りの邪魔をするのでな。止む無くあの世に行ってもらった。お前も俺の邪魔をするのかね、大島クルウ」
「狂ったか・・武樽」
「そうかもしれんな。チルーが俺を狂わせたのだろう。お前にも俺がチルーのために命を削って会得した奥技を味会わせてやろう」
武樽は両足を肩幅に拡げると少し腰を落とし、両手の掌を大島クルウの方に向けて高く構えた。
その両手の十本の指は、第一関節が鉤爪のように曲がっている。
「まさか・・熊の手か?」
まさにそれは熊が獲物を襲う構えであった。熊の手は福州に伝わる伝説の奥技であり、大島クルウも噂には聞いたことがあったが、実際の使い手と対峙するのは初めての事であった。
「これで終わりだ大島クルウ!」
武樽は猛然と大島クルウに襲い掛かった。
・・それからどれほどかの時間が経った後。
大島クルウの小屋から出てきたのは、武樽ただひとりであった。
小屋を出てしばらく歩いた後、小屋の方に向き直る。
そして長い間、芭蕉園を背景に佇む大島クルウの小屋を眺めていた。
(ここはなかなかいい所だ。そうだ、この小屋を潰して新居を建てよう。ここでチルーが芭蕉布を織って、俺が商ってもいい。子供が出来たら、あの小川で一緒に水浴びをしよう。トーデも教えよう。俺とチルーの子なら、男でも女でも強い子に育つはずだ。俺は家族のために身を粉にして働くぞ)
そのときの武樽の目の前には、見渡す限りの未来が広がっていたのだ。
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