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泊の宗久親雲上と放蕩息子たち
泊は那覇に次ぐ、琉球第二の港町である。
古くは奄美大島をはじめとする近隣の離島からの船が停泊する港であったが、19世紀ごろには海外からの船を受け入れる港となり、また中国や朝鮮からの漂着民が多く住む居留地でもあった。
その泊に宗久親雲上の屋敷はあった。
親雲上とは琉球の身分制度における、中級士族の位である。
その宗久親雲上は、長い放蕩から帰って来たばかりの二人の息子を呼びつけ、滾々と説教をしていた。
「お前たちが那覇で仕出かしている悪行の数々は儂の耳にも届いておる。いい加減にしろ。家名を汚すな」
同じ説教を何度も繰り返す父親の話に兄弟はうんざりしていたが、表面だけは神妙な顔をして拝聴していた。
「特に武樽、お前は兄として弟である武太を諫めねばならぬ立場であろう。先陣を切って悪さしてどうする」
まさに、ここで説教をされていた放蕩兄弟は、あのならず者の武樽と武太であった。
「はい、まことに申し訳ございません父上。実は私も深く省みるところがございまして、心を入れ替えるため武太とともに帰ってまいりました」
「何、心を入れ替えたいだと?それが真であれば殊勝な心掛けだ。ときに武樽、武太、お前たち今年でいくつになる」
「はい、二十でございます」
「私は十九です」
宗久親雲上は腕組みをして、ふたりの顔を見回した。
「ふたりとも立派な大人ではないか。そろそろ嫁を取って一家を構えてはどうか」
嫁と言う言葉を聞いて武樽の脳裏に浮かんだのは、あの与那嶺チルーの美しい顔と裸身であった。
あの日以来、寝ても醒めてもチルーの姿が瞼を離れない。
その幻はジュリを抱いても一向に消えることは無かった。
なのでそれは単なる情欲ではないと武樽は思い始めていた。
(俺は与那嶺チルーを愛おしく思っているのだ)
しかし、暴力でチルーを犯そうとした武樽である。いまさら正攻法で思いを遂げられるとは思ってはいない。
「父上、妻をめとる前に、思う所があって少し勉強したいと考えております」
「勉強だと?お前がか」
「はい、私は放蕩の限りを尽くしましたこと、今にして思えば無為な時を過ごしたと悔いております。そこでお許しがいただければ、清国に渡り学識・見聞を広めたいのです」
宗久親雲上はその言葉に大いに感心して頷いた。
「ふーむ・・そうか。よしわかった、武樽は行くがよい。武太は家に居て儂の仕事を手伝え、いいな」
兄弟は深々と頭を下げた。
父である宗久親雲上は武樽の言葉を息子の成長と感じ入っていたが、本当の目的はもちろん違う。
(与那嶺チルーを俺の物にするには、あの大島クルウが邪魔だ。しかし奴は腕が立つ。俺は清国で奴を凌ぐトーデを身に着けたい)
泊の武士の多くがそうであるように、武樽のトーデは漂着者より手ほどきを受けたものだ。
しかし、漂着者らは必ずしも武人ではなく、多少武術の心得がある船乗りや漁民に過ぎないことが多い。
大島クルウを倒すには、本唐の名のある武芸者より正統な拳法を学ばねばならない。
武樽が強さにこだわるのはもうひとつの理由がある。
それはチルーの父親が、チルーを多額の持参金を付けても嫁に出したがっている事。しかしチルー本人は、夫となるものは自分より強くなければならないと条件を付けている事を噂で聞いていたからである。
(大島クルウを倒し、与那嶺チルーを打ち負かせばあいつは俺の物だ)
チルーへの歪んだ恋心は、しかし武樽に強力なモチベーションを与えていたのである。
さて、ここからは少し余談ではあるが、読者諸氏の中には武樽、武太のならず者兄弟の身分が意外に高い事に驚かれた方も多いと思う。
実は、当時の琉球でトーデを身に付けている者はほぼ例外なく、士族以上の上流階級の者なのだ。
戦後広まった空手史ではとかく、空手とは尚王朝や薩摩の布いた禁武政策により武器を取り上げられ、虐げられた民衆が密かに家に籠って磨いた反逆の武術であるなどと言われていたし、今もそれを信じている者が多い。
しかしそれらはおそらく、戦後流行した社会主義思想に基づく階級闘争史観の脚色を受けたもので、史実はまったくそれとは異なる。
たとえば沖縄空手の系統として知られる首里、那覇、泊は、いずれも都心部(現在の那覇市)に集中したごく狭い地域である。逆に地方の農村部などに空手の系統は存在しない。
明治期から大正期にかけて、東京や大阪に空手普及に訪れた船越義珍、摩文仁賢和といった人物はいずれも士族の出身であり、組手の強者で元祖実戦空手で有名な本部朝基などは按司と冠される王族の出である。商人の家に生まれた宮城長順にしても大変な資産家であったことで知られる。
このように空手はレジスタンスの武術などではなく、むしろ支配階級である王族と士族と金持ちの間で流行した武術であった。以上を踏まえて、この物語を読み進めていただきたい。
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