妄想小噺

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妄想小噺

「たかが多様性」  彼については正直よく分からない、確かに言える事は、彼は春に現れた、ということだけだ。  曇天模様で雪は降らないものの、相変わらず10度以下の最高気温で、はたして桜の樹には蕾も付いてるのか?傍目には分からない具合だが、3月と言えば季節は春である、そもそも年賀状には新春とか書いてあるので1月から春なのだろう、だから3月は春なのだ、それは必然的なことだ。  窓を開け、朝の冷たい空気を肺に取り込みながら、そう自分自身に納得させようとしていた時、布団を干している大家さんと目が合った。 「やあ、おはよう」 「おはようございます」  何故、晴天でもないこんな天気で布団を干しているのか、その時はあまり深く考えなかった、もし、春は出会いと別れの季節なんていうありきたりなフレーズが浮かんでいたら、さっさと外出していただろう。 「え?新しい入居者が入るんですか?」 「うん、今日の昼頃には着くってメールがあったんだけど…」  昼頃には大家さんが空き部屋を掃除していたので、何事かと思って訊ねてみたところ、今どきこんなオンボ…年季の入っ…使い込まれ…おもむきのある…こんなボロい下宿に入居する奴がまだ居たのかと、自分の事は棚に上げて感心していた。 「へぇ…アーティストを目指す若者しか入れない、このTOKIWAハウスに新しい入居者とは?さぞかし才能溢れる若者なのでしょうね?」 「ん〜溢れるっていうか…あ、着いたみたい」  その時、何処かで聞いたことのある様なギターフレーズが聞こえてきた。 アレもしたい、コレもしたい、もっとしたい、もっとなんかしたい〜 金がほしい、コネもほしい、チョコも欲しい、キットカット欲しい〜  丁度、部屋の拭き掃除を終え、わずかに残った湿り気を、窓の外から入ってくる春風(と言うには少しばかり冷たすぎるが…)でもって乾燥させようとしていた大家さんは、調子外れのギターの音色に誘われるように玄関に向かった。  居あわせていた僕も一緒に玄関に向かったのはある意味必然だったのだろう、好む好まないは関係なく。  ここは、アーティストを目指す若者しか入れない下宿屋TOKIWAハウス、大家自身もその昔アーティストを目指していた事があり、絵画、陶芸、前衛舞踏、彫刻、音楽(実際には楽器別や声楽等細かく分かれるが、種類が多すぎて1つにまとめる)等、多様な芸術があるが、アーティストを目指す若者しか入れない下宿屋だ、もちろんここに入居している以上、僕もその中にカテゴライズされる人間だということは周知の事実だ。  古めかしい玄関のドアを開けると、そこには裸のアコースティックギターを抱えた裸の大将…もとえ…赤いバンダナを額に巻いて、白いランニングシャツ、色あせたモスグリーンの半ズボンにサンダル姿の若者が立っていた。 「初めまして、オモトタケルと言います」 「やぁ、よく来たね」  ありきたりと言えばありきたりな出迎えの言葉を口にした大家は、驚くべきことを言い放った。 「いい歌だね?きみの曲かい?」  まさか?!  その時の僕の顔を写真かなにかで記録していたのなら、僕のあまりの驚きを少しばかりは分かって貰えたと思うのだが、残念なことに、いや凄く一般的なことなのだが、たかが新しい入居者が入る場面を記録しておこうだなんて、そんな酔狂な大家さんではなかったので、僕の覚えている限りの二人の会話を記しておこう。 「そうです!」  悪びれもせず、かと言って自慢げな様子でもなく、キッパリと彼は答えた。  そうです? 「続きは、あるのかい?」  その言葉を待っていた、と言わんばかりに彼は満面の笑みを浮かべながら、アンコールを受けたプロのミュージシャンの様にもったいぶってギターの調弦を始めた。  よく見ると、調弦するためのネジが集まっている部分に何か書いてある、僕は楽器の種類は分かるが、その楽器の一つ一つの部品や場所の名前なんか覚えていなくて、曖昧な表現になるのだがそれは許して欲しい、こと楽器に関しては、僕は完全なる門外漢なのだから。  ともかく、その部分にカタカナでギブソンと書いてある事だけは分かった、調弦を終えた彼は、また弾き語り始めた。 俺には夢がある〜 両手では支えきれない〜  驚いた…まんまだ、そのまんまだ、少しばかりハスキーな癖のある歌い方、時折ジャンプして両足を大きく開くパフォーマンス、楽器の事は分からない僕だけど、はっきりと分かっていることもある。 それは違う。  突然始まった玄関先でのソロライブは終わった、ぴょんぴょん跳ねていた彼は、すでに肩で息をしている、寒すぎるだろ?とはじめは思っていた彼の格好も、こうなる事が予め解っていたようだと考えると腑に落ちた。 「うん、悪くない!」  大家さんは本当にこの曲を聞いた事がなかったのだろうか?拍手を贈る大家さんにつられて、愛想で拍手を贈ったが、玄関で出迎えたこともあり、最初から決められていたスタンディングオベーションだった。 「マロニエって知ってるかい?」 「知りません、生焼けみたいな物ですか?」 それは生煮えだ 「フランスのパリにあるシャンゼリゼ通り、名前くらいは聞いた事あるだろ?」  彼のギターサウンドが大家さんの琴線に触れたとはとても思えなかったが、おもむろに話し始めた。 「近くのアパルトマンに住む芸術家達が通りに面したカフェにたむろして、マロニエの並木が静かに揺れる中、芸術談義に花を咲かせるのさ、僕はそんな彼らに憧れてこのTOKIWAハウスを作ったんだ」  もし、大家さんが若い頃からフランスに行っていたとしたならば、どんなに有名であれ、たかが日本のポップスを全く知らないという可能性を失念していた。 「君はそのギターで世界に名を刻むつもりかい?」  失礼ながら言わせてもらうと、音楽に関しては素人の僕だが、全くと言っていいほど心が動かされなかった、多分、ギターで身を立てるということは彼には不可能に思えた。   「ギターは趣味です」  良かった、流石に本人も自覚していたのだろう、春先のオシャレな装い、そんな事は構わないと言った風でランニングシャツ姿で現れたこの若者にも自分の音楽がどれほどのものかを理解することは出来たようだ、そして1つの疑問が生まれた。 「大家さん、なぜ彼はココに入居することになったのですか?」  アーティストを目指す若者が集うこのTOKIWAハウスに、新しい風を吹かせるこの男は、一体どんな多様性を秘めているというのか? 「彼の名前だよ」 「名前?」 「オモトは漢字で書くと『まんねんあお』と書くんだ、そして此処はTOKIWAハウスTOKIWAは常盤、永久不変って事だよ」 「お似合いだと思わないかい?」  永久に変わらないものなんて在るのだろうか?昨日の晩までの僕は、このTOKIWAハウスから世界へ打って出るという気概で動いていた、ところがどうだ、丸一日経たない間にココを飛び出したい欲求に駆られているではないか。  僕たちの間に寒すぎる春風がひゅーと吹いた。      終わり
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