精霊王が死んだ

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精霊王が死んだのは、良き日の朝だった。 何事も起こらぬような青天、不安を煽る風もなく、日は満ちて緑青々と萌ゆるその日、精霊王は死んだ。 理由はない。 死に、理由などあろうか。 死には感情も必然性もなく、その存在がこの世から消え失せる、単純な。誰もが逃れることのできない。必要な法則である。 精霊王が死んだ。 その途端に天から本来ならば人の目に写らぬほどの些細な生き物である半透明の水と風の精霊達が地に落ちていくのが人の瞳にはっきりと見え、海には数多の精霊の死骸が浮かんだ。 山も、砂漠にも、精霊王の加護によって生きていた精霊が死んだ。名と力のある精霊は生きていた。生きてはいたが彼等は偉大な精霊王に匹敵する力がある者などいなかった。 この星の名前はメントラ、人間の赤子が母胎で眠る姿に似ている星だ。 メントラの不安定な大気のバランスを支えているのは精霊王であった。 彼に子供はいなかった。 彼が遺したのは生前気まぐれに誰かに与えたり、精霊王の自室にぞんざいに置かれていた幾つかの種子であった。 それが一体何であるか、何が芽生えるのかは誰にも解らぬことだ。 【精霊王が死んだ】 精霊王が死んだその日、雨が降るように半透明の、中身の透けた、なんと形容すればいいか解らない様々な形の精霊達が空から大地へ降り注ぐ。 質量のない死骸だ。そしてその死骸は地に落ちた途端にすっ、と消えるのだ。なんのために。そんなことは知らない。 知らなくていいと男は思った。それを特等席から眺めていたのは精霊王とは全く関係のない男であったから。 その男は岩山に閉じ込められた囚人だった。 琥珀の国はその岩山から二日余り、馬で降りると在る。その岩山は中に人力で掘られた洞窟、階段が含まれていて、頂上には洞窟に鉄格子がはめられた岩牢が(しつら)えてあった。それは随分古い代物なのだった。糞便の類は桶にし、鉄格子の外に中身を思い切り遠く投げ捨てれば良い。そうすれば眼前に広がる谷底に落ちるから。少し力加減を誤って近くに糞便をまき散らしてしまっても心配することはないのだ、雨が降れば洗い流してくれるし、近いうちに、といえば生臭い匂いを嗅げ着けた死肉食いの怪鳥や、四つ足の獣たちが囚人の前に姿を現わすだろう。そして糞など舐めながら、じっとりと囚人を見つめるのだ。猛禽、猛獣共は知っているのだ。人肉の味を。この檻の中に閉じ込められている人間が死ねば、その死骸は糞便の扱いと同じく谷底へ捨てられる。それを狙っているのだ。 硬い木の椅子、軋む粗末な鉄のテーブル、固定されたベッド。 けして狭くはないその牢の隅には木箱が十数個積まれている。そこには水や、干し肉、それに彼の支援者が兵士に賄賂を払って忍ばせた何十本の葡萄酒。そんなものが中身だった。 男は木の椅子に深く座り、足を組む。この場に似つかわしくない銀盃で葡萄酒を飲んでいる。囚人である。だが、ふてぶてしい。 男の名はハンス・ヘルデゲウスと言った。年の頃は四十半ばだが、詳細な事は彼自身も知らない。彼は捨て子だった。だから、自分が本当はいくつなのかも、本当はどんな名前を両親から授けられたのかも知らなかったが、そんなものはどうでもよかった。彼の顔は渋み、苦みを含んだ良い面相で、年をとっても豊かで艶のあるビロウドの光沢を持った黒髪の輝きは衰えることがなかったし、張りのある低い声はどんな女をも虜にした。上背のある体は逞しいけれど、やけに官能的でもあった。若い時だけ異性にもて、後年になると孤独になる男性が多いのだが、この男は年を取るごとに、その魅力に深みが混じり、彼を愛するのは女だけではなくなった。それは彼が本当に魅力的な男であったからだろう。 だから自分がどんな両親から生まれ、どんな事態があって捨て子になったのか。そんなことは本当にどうでもよかった。彼は自分に満足していた。 この結末にもあらかた、満足している。
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