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トラベルは冒険心と共に 第三話(完結)
「他国の植物園でも、多くの貴重な草花を生育しているわけだが、決して独り占めはせずに、その一部は観光客への販売を許可していたりするのだが、ここでは無理なのかね? あんな見事な色のウツボカズラやモウセンゴケは他の観光地では見たことがないよ! 一株三百ドルまでなら出せるんだが……、やはり、ダメかね?」
「こんなに貴重な動植物を、この国だけで独占しようっていう気なんですよ……。まったく、これだから観光立国っていうのは……。そもそも、設立当初においては、我が国が珍しい草木の種や株を分け与えてあげたからこそ、ここが成り立っているというのに……」
アメリカ人夫妻は見たところ、園内に入ってから、世話しなく口を動かし続けている。かえって、目や足よりも動いているくらいだ。完全に自分たちだけの世界だ。周囲の人の発言や動作なんて、まったく目に入らないタチなのか、それとも、長年にわたり寄り添った連れ合いを話し相手にして、数時間に渡り、長々と話し続けても、顎の調子が悪くなったりは、しないものなのだろうか。フランスから来たお嬢さんとしても、腹の底では、この二人の態度が気に喰わない様子にみえる。入場して以来、件の二人とは、まったく絡みにいかないことからも、それはよく分かる。しかし、今は、私との余計な会話を何とか遮断することを、より優先にしたいらしかった。彼女は私を離れて、歴史上の全ての事件を侵略と破壊によってのみ解決してきた、野蛮人たちの方へと徐々に歩み寄ろうとしていた。私はそれを何とか呼び止めようと、背後から話しかけてみた。
『ねえ、彼らがこれまでの報いを受けるところを、一緒に見守りませんか?』
本当はそう言うべきだった。
「ねえ、お嬢さん、イグアナで思い出したんですが、あの不気味な生物を、もし、細かく分類するとなると、あれは(ツノ)トカゲなんですか、それとも、バシリスク(コカトリス)なんですか、あと、カメレオンの仲間という学説もありましたよね。さあ、どれです?」
「あの……、それって、それほど重要なことでしょうか? 私は生物専攻じゃありませんので、どれであっても結構です。一向に構いませんわ。猛毒を持っているわけでもないですし、街中で人に襲いかかったという話も聞きませんわ……。あなたのお好きなように分類なさればいいと思います……」
彼女は後ろを振り返ることもせずに、冷たくそう答えた。両肩が少し震えていた。いったい、何を恐れているのだろう?
「貴女は今、とても興味深いことを言われたんですよ。ご自分でお気づきになられましたか? そう、植物の分類についてのお答えを、一切なされなかったことではないんですよ。『人に危害を加えない生物なら、分類については、どうでもいい』と仰ったことです。これはとても有意義であり興味深い回答といえます。なぜなら……」
「あの……、ここで二人だけでお喋りするのはやめて、私たちも係員さんのところに合流しません? 皆さん、あちらにいますよ」
「もう少し、ここにいた方が良いと思いますよ。実は先ほど、草葉の陰から、お目当てのものがですね、ちらりと見えたんですよ。私がここを訪問した目的は、ペラドンナやラフレシアや胡蝶蘭の見学というわけではないんですよ。実は興味は食虫植物にありまして、それは、必ずしも適切な表現ではありません。数年ぶりにこの地を訪れたのは、きちんと育っているかどうかを、確認するために来たんです。数分前にね、ちらっと、それが動いているところが見えたのです。正直なところ、嬉しかったですね。自分で企画して苦労して育ててきたモノが動いているところをようやく見れたんですよ。ですから、今日の目的は無事に達しました。何を言いたいかはわかりますよね? 貴女はそこから一歩も動かないで……」
そのとき、彼女のちょうど背後の芝生の上を、何かが這いずっているような気配がした。思わず息を殺した。私の足は意識もせずに後ろへと下がっていく。静かに下がっていく……。アレは哺乳類のように獲物を選別して追っていくような知性を持ち得ない生き物であり、『自らの創造主には、決して襲いかからない』などという都合のよいプログラムがインプットされているわけではない。ただ、素直な欲望だけで語らせてもらえれば、もう少し近くで、あいつの荒仕事を見届けたい気もした……。しかし、観察という言葉が持つ魅力と衝動は、冒険好きな学者たちの身を常に危険にさらすことになる……。この自分も、あの食人植物の間合いの中に堂々と入っていくのは無謀なことに思えた……。確認が済んだ以上、まずは、この命を守ることを最優先に考えなければ……。見ることも聴くことも出来なくなってからでは遅い。歴史上、優秀な研究者ほど早く命を失っている……。アフリカのサバンナにおいては、欧州でもっとも権威があった生物学者が、長年、自分で餌を与えて育て続けてきた猛獣によって喰い殺される事件が起こったばかりなのだ……。自分の生き甲斐に潔く殉ずる人もいるが、私はそれが正しい選択とは思わない。アレを育てるにあたって、何度となくそうした危険をくぐり抜けてきた。たしか、あの時は……、こうやって助かったはずだ……。
彼女はこの恐怖の本質にまだ気づいていない。少し早足になって、十五メートルほど離れた位置において不用心に群れだっている、他のメンバーの下に加わろうとして、そちらへと歩んでいった。しかし、そこから数歩も進まないうちに、その動きは恐るべき発見による驚愕と共に自然と止まった。何が起きたのかと、状況を伺っている。我々のグループのうち、後方にいた数人は相当に混乱している様子に見えた。人命が危機に晒されほどの大きなトラブルに見舞われ、辺りでは、それに伴う大混乱が引き起こされていることが明白であった。他の見学コースの観光客も、その状況を目の当たりにして、顔を青くして駆けつけて来て、その最悪の事態から脱するために、何とか対処してやろうと懸命になっているように見えた。その異質な生物は、東洋の伝説に語られる大蛇のような緑色の巨大な口を広げて、自分のテリトリーに踏み込んできた獲物たちに襲いかかり、そのまま食い尽くしてやろうと身構えていた。その口の内部には、多数の尖った白い牙が光っている。そして、多くの被害者たちの血液をすでに吸いつくしたかのように、真っ赤に染まっているのである。その大きな吸い込み口のちょうど下あたりに、どっしりとした二本の足、一見ワニのような前足が付いていた。これは定義上植物とはいえない。なぜなら、自由に動くことができる。彼らが望んでいたからこそ、弱点を消してやった。今は、恐怖に引きつった獲物を、どこまでも、とことん追いかけていくことができる。これは植物の欠点をすべてカバーする優秀な進化ともいえる。
最初に見つかってしまったのは、先ほどまで、我が物顔で大暴れしていたタイの子供であった。母子は手を繋いで懸命に逃げていた。観光地には人に害をなすモノなどいるはずがないという、幼児特有の無邪気な思い込みからか、それと視線を合わせてもしばらくは足を動かせず、そのために逃げ遅れてしまい、両脚から喰いつかれてしまったらしい。今度という今度は、赤の他人である他の参加者たちも、さすがにそれを見て笑ったり、『とにかく、自分でなければ良い』などという、心の余裕を見せたりはできないはずだった。我々人間には、両足がしっかりと付いているし、深くは考えずに、兎にも角にも、この危険地帯から走って逃げ出すという行為は、きわめて単純ではあるが、決して悪い選択ではない。私が知る限り、まあ、長年研究した限りと表現してもいいかもしれないが、あの人外の生物は、一切の光を感じることができないからだ。それは致命的ともいえる欠点のはずである。しかし、あの怪物は音に対しては非常に敏感である。地面の下を伝って自分のところへ届いてくる、微かな振動を聞き分けて、獲物の持っている運動能力と、今現在、どの方角の、どの辺りまで離れていったのかを、瞬時に、そして正確に判断することができるのだ……。
「そうだ、お嬢さん、先ほどの続きで、今度は食虫植物を区分していくというゲームはどうです? そうだ、これは非常に興味深いゲームだ。そうでしょう? ああいった生物は、生物学的にいえば、どのように区分していけばいいんですかね? 伝え聞いた話では、どうやら、生物学者の間でも意見は分かれるようですからね。当然ながら、獲物を自分の罠まで誘因する能力が有るものと無いもの、消化機能を有するものと無いものが存在するわけです。さあ、貴女ならどの辺りに線を引きますかね? ぱっくりと開いた不気味なとげとげの葉の上まで、のこのこと寄ってくる虫や小動物を巧妙に捕獲してみせて、自分の栄養分として消化してしまうもの全てが食虫植物の定義なんですかね? 少し簡単で雑すぎるように思えますが、本当にその定義でよろしいんですか? 全ての捕獲種がその定義にぴったりと当てはまりますかね? 私にはどうもそうとは……、それとも……、先ほど、貴女が仰ったように、自然界に生きる全ての植物が、我々にとって光合成や鑑賞するだけの対象ではなく、(もちろん、完全に無害であるならばそれで良いのですが……)もし、我々人間にも平然と危害を加えてくる種が存在するならば……。そして、我々のすぐ近くにも、それが生育しているとすれば……」
彼女はその重要な説明を話半分にしか聞いてくれなかった。なぜなら、自分の目で今まさにその残酷な現実にほど近い状態を、まざまざと見てしまっているからである。私によるそれ以上の解釈を必要としていなかったのだ。いや、心を極度に波立たせる、腹立たしく、そして余計な問いかけとしか受け止めてくれなかった。しかも、この現場に直立している彼女自身も、今現在、人生の岐路に立たされていることが、最大級の恐怖とともに実感できているからである。彼女は得体の知れない生物に襲われて、最大の苦境にある人々と、それを観察していながら、救いの手を差し伸べようともしない、およそ人の心を離れた私の態度とを何度も見比べていた。そこには自己犠牲の精神から、今すぐに駆け寄って助け出してあげたい、という積極性の表れと、早くこの場から逃げなければ、次は己の身が危ういという、きわめて人間的な判断との狭間にある心的動揺が見え隠れしていて、その正義心と不安の入り混じった表情が、この上もなく、魅力的に思えたのだ……。
広い世界のどの国に生まれたとしても、乗用車を運転しようと思ったら、まずは運転免許証が必要となる。量販店で新しい家電製品を購入してきたら、早く動かしてみたいという、はやる気持ちを抑えながら、まずは取扱説明書を取り出す人がほとんであろう。これは言うまでもないことだが、普通教育を受けた成人であれば、そういう、いささか面倒な段階を踏まなくとも、新製品を操作すること自体は十分可能なはずである。しかし、なぜ、そういった余計な時間を費やしてまで、操作方法を熟知するための知識を得ようとするのか、これは当然、想定外の危険な事故を未然に防ぐためである。そう言われて思い出したのだが、チェコの作家フランツ=カフカは、労働者保険局に勤めていた折、性能が悪く危険な機械の取り扱いに苦しむ労働者たちのために、電動丸のこぎりを安全に活用するための図解入り説明書を作成してやったという……。こういった美しい配慮により、建築現場における労働者の腕や指の切断事故といった、絶対に見たくもない悲惨な出来事は、大きく減っていくことになる。もちろん、私を含めた現代の官吏や学者たちは、カフカのような人道に寄り添った心の優しさを、たった一粒たりとも、有しているわけではないのだが……。
さて、世界中から六万種の植物を集めて展示している、この植物園とて、事前にその生態の知識を得ておくことは非常に重要である。実生活において『知識を得ること』というのは、必ずしも欲望からのみ発生するわけではない。知識の有効活用は、資産や地位のためだけではなく、そのまま、危険から身を守ることにも繋がるからである。
「そんなこと、どうでもいいでしょう! ちょっと見なさいよ! あの可愛らしいタイのお子さんが、今、巨大な植物にかじられているのよ……。なに、あの、緑色の怪物は……。みんなで……、助けようとはしているけど……。もう、だめ……、下半身のほとんどが、袋の中に飲み込まれてしまっている……」
子供を何とか助け出そうと、その小さな身体にしがみつく、母親や勇気あるアメリカ人の腕に、怪物の口から吐き出された白い粘着物が容赦なく絡みつき、その腐臭が目眩や麻痺や意識の混濁といった、さらなる状態異常を引き起こしていた。アメリカ人夫妻は子供を救うことを諦めて、今度はその場から逃走することを試みていたのだが、その……、何と表現すれば良いのだろうか、その化け物の背中から生え出て来た無数の紅い触手に自分の手足が絡めとられてしまい動けなくなっていた。我がグループの四人は、全員がその想定外の事態に巻き込まれ、他の観光客や現場にいるスタッフたちの助けを借りようと、懸命の叫び声を響かせたが、周囲にいたはずの十数人の目撃者は、事態を解決することの困難さをすぐさま察すると、被害者たちを捨て置いて、我先にと安全地帯を目がけて全力疾走するという、きわめて賢明な判断をしていた。
自分の眼前において、列車や航空機の事故など、予想外の事態が出来した際に、最初の数分間は、自分の感覚の上で、どのような驚きや動揺を体験したとしても、結局のところ、己だけは無事に済むのではないか? という、まったく根拠のない楽観的な思惑が、多くの人の脳裏に働くものである。これは必ずしも現実逃避という四字熟語だけでは語れない。人間の脳とは常に数分後、あるいは、一時間後、想像力の豊かな人なら数日後のことまで想定しながら、それに備えて活動を行っている。その脳の奥に潜む、信用するに足る現実性が『もしかすると、これは危険な事態なのではないか』という仮定に基づいた眼前の状況を、頭の中から完全に吹き飛ばしているのである。そういうわけで、どんな恐るべき事態においても、その最初の段階から震え上がっている人は、実際のところ、ほとんどいないのである。人間は自己の生命が危ぶまれるほどの不幸の宝くじが、その身に到来してしまったことよりも、未来に確実に存在すると思われる『不確かな現実』の方を頑なに信じるものである。しかし、最大級の悪運に選ばれてしまった不幸な人々の身の上には、後日の警察による検証作業においても、確率的にはまったく起こり得ないほどの悪魔のような条件が次々と重なっていたことが判明していくのだ……。そう、不幸の論理というものは、最新のパソコンや有能な数学者による確率計算をも完全に無視する形により、次々と重なっていき、『もう、どうあっても、確実に助からない』という絶望の定理が、それぞれの脳裏に完成してしまうまでは……、人間という悲しい生き物は、『自分という存在が、未来というきわめてあやふやな世界において、確実に生き残っていられるという思い込み』からは逃れられないものなのである……。
当初は楽観的だった彼女としても、今となっては、幾人かの犠牲なくして、自分の負傷なしにこの事態を突破することは難しいという現実(リアリティ)に辿り着くことができたようだ。つまり、『このか弱い自分が、今さら救助に向かっても無駄なんだ』という正しい考えにようやく行き着いたわけだ。そうすると、振り返って、私の方にその可憐な顔を向けてくれた。しかし、私を最後の盾として、我が身を優先的に守ってもらおうとか、この腕をとって、未来に向けて一緒に走り出したいとか、そういう前向きな考えを生み出したわけではなさそうだ。彼女がこの私のどこに脅えているのかは分からないのだが……。その震えた身体と双方から追い詰められたシマウマのような青い目が意味するところは、(私以外の人間には)どこから生まれたかもまったく想像できない、あの植物を模した醜悪な怪物よりも、むしろ、こちら側の存在に嫌悪の念を抱いているように見えたのだ。
彼女の哀れな目は、容易に測れない複雑な意思を示していた。すなわち、『あなたは、事前にあの怪物の存在を知っていたんですか?』『もし、生態について詳しくご存じなら、今からでも、みんなが助かる方法を教えてもらえませんか?』というようなこと。ああ、それと、『この場所に怪物が棲んでいることを知っていたのなら、なぜ、事前に教えてくれなかったんですか?』という内容も含まれているかもしれない。追われる人間の心理の詳細を知ることは、きわめて重要なことだ。私はこの娘さんが未来に渡り笑顔でいられることを強く望んでいた。しかし、彼女の表情が意味するところは、恐れと驚愕と究極の不信であり、私に対して、『なぜ、こんなにも酷いことをなさったのですか?』と厳しく問いかけているようにも思えた。これまでにも、実に多くの被害者が、この私を憎悪の目で睨んできたわけだが、その心の奥を見通した人間は、ついぞいなかったのだが……。
「こいつは昼間は木陰で寝ているはずだったんです! 大きく成長したことで活動時間に変化が起こったのかもしれない! それに四六時中、尾の先を鋼鉄の柱に縛りつけてあって、近くで誰かが見張っているはずなんです。なぜ、こんなことに……」
そんな断罪の声が聴こえてきた。尊敬に値する係員は、もだえ苦しむ被害者たちから一度離れると、私たち二人の方へ真っ直ぐに向かってきた。我々が無事でいることに一応の安堵の表情を見せた。しかし、またすぐに、この重大な事態の責任者の顔に戻った。それは、もし、自分の管轄するグループの見学中において、犠牲者などが出てしまえば、どのみち、彼は身の破滅となるわけだ。冷酷無比なるマスコミによって、プライバシーの全てが暴かれ、職も財産も家族も友人も失う。それならばと、彼はあの化け物と刺し違える選択をするはずだ。実際のところ、あらゆる職業人間とは、そうでなくてはならないのだが。
「すいません、この西方への小道を真っ直ぐ行きますと、この区画の管理室があるのです。そこへ駈け込んで頂いて、警備員に助けを求めてもらえませんか? 私は参加者の方の救助に向かいます。できるだけ、時間を稼ぎたいと思っています。どうか、お願いします。応援が来れば、どうにかなると思いますので」
「わかりました。管理室への連絡は私に任せてください」
私は懸命に駆けていく係員の後ろ姿を見届けると、再び、彼女の方に視線を向けた。武器も持たない、あんな細腕が何分も持つとは思えない。我々には一刻の猶予も残されていない。これが最後の説得になるだろう。
「お嬢さん、貴女は助かりたいんですか? それなら、まずは呼吸を止めて、足音を立てずに静かに移動しましょう。怪物は我々の臭いを覚えているわけではない。物音を立てなければ距離はつかめないはずです。空腹を満たせるならば、獲物は誰でもいいわけですから、あえて、我々が餌になる必要はありません。園内の多くの人は、化け物の存在には気づいていませんから、とにかく、人混みを探して、そこにいち早く飛び込むべきです」
「管理室には向かいませんの?」
「お嬢さん、もう一度、申し上げますが、あのグループを捨てて、私と一緒に逃げませんか? 私はあの化け物の具体的な特徴をいくつか知っています。貴女の未来を任せて下さい。この言葉を信じていただければ、高確率で二人の命は助けかると思います。ほら、あそこに鉄柵に囲われた蘭園があるでしょう。そこからでも、あの柵の並びが見えますよね? あの内部に逃げ込めば、しばらくは安全だと思うんです」
しかし、彼女はすでに何の判断もできないほどの恐怖に捉われていた。その弱弱しい視線は、かろうじて私の真剣な眼差しを見つめ返していた。後で思えば、およそ三割……、いや、四割ほどなら、私の腕にしがみついてくる可能性もあったのだろう。彼女の視線は私の顔から、だらしなく膨らんだ腹部や頼りない上腕に流れていくにつれて、未来への失望の色を濃くしていった。
「ごめんなさい……、やっぱり、あなたには付いていけないわ……。こういう極限状態では、各々が最終的な判断をして生きる方法を模索するべきだと思うの……。決して、あなたが悪いわけではないけど……」
あんなに可愛らしく見えた彼女の姿は、この最後の言葉を残して西方へ、つまり、蘭園や入り口の方にではなく、ここから遠く離れた出口側の方に向けて駆け出していった。私から離れていく影。永遠に去っていく足音。背後から大声をかけてでも止めようかとも思ったのだが、今の状況では、極力無駄な行為を避けたいとの思いが強く、それを諦めることにした。私の声を覚えられたらまずいからだ。
予定通りに蘭園の方に向けて、ゆっくりと歩むことにした。その間、多くの観光客とすれ違う。先に襲われるべき獲物はまだ多く残っているのだ。あいつらが先に喰われてしまうはずだ。間違えが起こらなければ、私だけは助かる。まったく焦ることはないのだ。ほどなくして、後方から男性の太い叫び声が聴こえてきた。中年女性のすすり泣く声も届いてきた。それらは錯乱する意識の中で、すっかり混濁してしまい、幻聴のようにも聴こえるのだった。それらが何を意味するのか、つい先ほどの恩義や恨みごと、そんなことを悠長に考えている余裕はない。あのうるさい子供が頭を齧られたはずの現場から、私だけは少しずつ遠ざかっている。そのことが重要だ。助けに入った次のグループも、すでに襲われている。何も気づかずに通りがかった人たちは、あの現場を見た瞬間に、何を思ったのだろう? それぞれの叫び声がまるでコーラスのように重なって心地よく響く。甲高い声、くぐもった低い声。あの声が誰のもので何を意味するのか。それを懐かしく思い出したり、憐憫の情に変えてみたりするのは、完全に安全だと言い切れる地点まで避難を終えてから。つまり、地元の新聞社のインタビューにでも、答えているときで良いのだ。こちらとしても、少しは慌てているように見せなくては。間違えても、加害者に見られてはいけない。まるで臆病者のように。まるで、ぎりぎりの生存者のように。別れ際の彼女の脅えた顔は『できれば助けて欲しい』と訴えかけているように思えた。でも、『できれば殺してほしい』と願っているようにも見えた。
そこから十数歩も進まないうちに、今度は若い女性の金切り声を聴いたような気がした。精一杯生きた命が途切れてしまうときの声。そして、選択の誤りを悔いるような、とても悲しい声にも聴こえた。もちろん、私は歩みを止めようとはしなかった。あの化け物に気配を悟られたくなければ、不用意に足音を立ててはいけない。静かに、なるべく、静かに。なるべくなら、呼吸音も落とした方が良い。靴音も立てずに離れていく、離れていく。彼女の血まみれの遺体から離れていく……。
言い知れぬ恐怖から、真っ赤な巨大な口を開いた植物との合成獣から、そして、彼女の若い身体から、少しずつ離れていく。予定の場所に逃げ込むまでは落ち着いて進んで、ようやく、蘭園の鉄柵に触れるところまでは来れた。当初は半々だと思っていたが、自分だけは助かるのだろうか。今、背中からしがみつかれたとしたら、ぞっとするだろう。ここからは両手で柵を伝って、素早く入り口のゲートの前へ。残念、チケットの販売員は事態を知らされたのか、すでに避難した後だった。誰に代金を払えばいいのだ。チケットも買わずに中へ入っても大丈夫なのだろうか? 止める者もないので、私はゲートをくぐって、満開に咲き誇る蘭の園の中へと進んだ。思えば、私だけが。
その広い区画の中には、美しい景色を楽しむ客たちが、数千種類の花々に囲まれて、まだ、何も知らされずに……、幸せそうに……。新たな入場者に微かな視線を寄こした人もいた。でも、こちらの動揺を気にする素振りはまったく見せないのだった。何も知らずにここにいる、多くの観光客たちも、当然ながら、様々な人種が入り混じっていた。構うことはない。そのまま、ゆっくりと人の輪の中に混じってしまおう。
よそのグループのガイドは、この私にも赤い洋ランの説明をくれるかもしれない。とにかく、ゆっくりと、息を殺して。まだ、誰も気づいていない。遠くから、ほんの少し、何かが砂の上を這いずるような音が聴こえてきた。すっかり気配を消した私の身体は、やがて、群衆の中へと。滅多に見られない華麗な花々の姿に驚きの声が沸き起こり、幸せを祝う笑い声が、人々の余計な視線と視線とが交差して、どっと湧きかえる。
そう、これでいい。もうすぐ、最大の恐怖が現れて、その全てが悲劇に変わるまで……、私は群衆の間で息を殺して、じっとしていればいい……。要は確率の問題なのだ。狂人が発砲した、たった一発の銃弾によって倒されてしまう人だっている。誰が先に襲われるのだろう? 周囲にいる人々の、当たり前のように過ぎる日常を喜ぶ顔を見渡してみる。もう、あと数秒後、叫びと大混乱がやってくる。私はどうやって生き延びようか……。それは、あいつが来た後で、ゆっくりと、考えればよい。
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