蜘蛛のおもかげ

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 幼き頃より共に遊んだその人は、わたくしの大切なお方にございました。彼と知り合う前のことは覚えておりません。幼き頃より、わたくしにとって草履とは彼と会うために履くものであり、空き時間とは彼と過ごす時間のことであり、外出とは彼の元へ向かう行為であり、彼もまた笑みを浮かべてわたくしの到来を歓迎してくださいました。差し出される手に手を重ねて、向けられる笑みに笑みを返して、聞こえてくる優しい声に明るい声を返して、それはあたかも家族と共に過ごしているが如く、親しみを満開に咲かせておりました。  いつからでしょうか、その交流に大人びた思惑を乗せるようになったのは。  子どもというものは無邪気なものです。そして少女(おとめ)もまた、無邪気なものでした。少女(おとめ)なるわたくしに邪気などは全くなかったと今のわたくしは思います。あの頃のわたくしは邪な思いなど何一つ持ち合わせぬまま、あの人と顔を合わせておりました。それを純情だと友は言いました。純愛であり恋愛であると友は言いました。わたくしは依然として思慕であり敬愛であると訴えました。認めたくなかったというわけではありません。事実そうだったのです。わたくしにとってあの人とのひとときは甘いものではなく、酸っぱいものでもなく、苦いものでもなく、ただひたすらに当然のものであり味など何一つなく、強いて言うならば冬にくるまる布団のような心地だけがそこにありました。  ですから、わたくしは彼に甘い言葉をもらったことはありません。風貌を褒めていただいたこともございませんし、それほどの美しさなど持ち合わせてはおりません。どれほど髪に椿油を撫で付けたとしても、わたくし達はただ、見慣れた塀に背を預けて村長の息子の悪口を言い合い、大きな柿の木の根本でかくれんぼをし、井筒の横で背比べをしたりしておりました。  そうして幾年が過ぎ、あの人と会う日々はなくなりました。人というものは自らの意志であちらへこちらへと足を向ける蝶のようなものでございますから、あの人が遠くの学舎へ泊まり込みで通うと決めたのをわたくしが止められるわけもなく、引き留める気もなく、せめて悪しき蜘蛛の巣にその美しく広げられた翅が触れ捕らえられ食われませぬようにと思うばかりでした。  わたくしの願い通り、あの人は蝶のまま飛び行き、春になっても夏になっても秋になっても冬になっても、わたくしのおります屋根の下へ現れることはありませんでした。 ***  あの人が飛び立ってからどれほどの月日が経ちましょうか。あの人が会いに来るという知らせにわたくしが動じたのは、あの翅が翅のまま空を飛び、汚れるどころか大きく広くなり、あの人があの人のまま、けれどさらにどこへ行くではなくこちらへ向かって来ると聞いたからにございます。あの人は翅を持つ蝶、もはや翅を奪われぬ蝶、なればどこまでも、どこへでも飛び行けるというのに、あの人はようやくこの寂しい蛹(さなぎ)の地へ戻ってくるというのです。蛹の中で死した哀れな娘の元へと戻ってくるというのです。  私は動じました。手元の針仕事が疎かになるほどには驚きました。今更このような地に何の未練がありましょう。ましてやわたくしになど何の未練がございましょう。手先が震えて仕方がないので、井戸へ水を汲みに参りました。井戸へ赴く前に、少し考えまして、そうして着物の襟や裾を整えました。  果たしてあの人は井戸におりました。井戸はわたくし達の遊び場の一つでありました。そして、わたくしが好む物語の一幕でもありました。  わたくしは待ちました。彼もまた、ぴしりとした布地の服の中で落ち着きなく体を捩らせた後、背筋を伸ばしてわたくしを見ました。 「背が伸びてしまったよ」  そうして彼は井戸の縁へ手のひらを置きました。 「この井戸はこれほどに小さかったか」 「わたくしも髪が随分と伸びました」  そうしてわたくしは自らの肩へと手を伸ばして、髪をそっと撫でました。 「結い上げてみれば美しく飾れましょう」  それは決まりきった言葉なのです。わたくし達が思い至った風情あるやり取りではないのです。はるか昔の人が編んだ言の葉、それを真似しただけの浅はかな。  けれど、それで良いのでした。  少なくともわたくしは良いのでした。 「良いでしょう」  彼は笑いました。笑って、そしてほろほろと涙を流しました。 「良いでしょう、その髪、私の隣で結い上げておくれよ。私がそう言うまで君は待ってはくれなかったのだね」 「人はさだめに逆らえぬものにございます」  わたくしは髪の束を一掴み持ち上げて、指先から数本ずつ手放していきました。秋の木の葉のようにはらはらと髪が手の中からこぼれおち、そして水溜まりの中に落ちる雨水のように消えていきました。髪だけではなく着物の裾も消えていきます。わたくしのかけらを運ぶように生じた風がどこからか木の葉をも運び、井戸の傍らに転がる桶の中へ溜まった雨水へとそれが落ちて影を水面に浮かべたのを、わたくしは眺めておりました。  その雨水がいつの雨によるものかを、わたくしは知りませんでした。 「長いこと、この家でお待ちしていたように思います。長いこと、長いこと、お待ちしておりました。あなたがいらっしゃると決まっていたわけでもないというのに」 「けれど私は来た」 「はい、あなたはいらっしゃいました。約束もなく、呪いでもなく、来てくださった。これで良うございます。わたくしには十分にございます」 「ああ」  彼は泣きました。泣いて、わたくしを見つめておりました。 「さようなら、可愛い妹、可愛い友よ」 「さようなら、優しい兄、優しい友よ」  ですから、もう、わたくしのような悪しき蜘蛛にとらわれることのありませんように。蝶になれぬまま蜘蛛と化したわたくしから逃れられますように。どこまでもどこまでも、あなたの翅で晴れやかに飛んで行かれませ。  消えゆく手のひらをそっと差し出せば、彼は形を失ったわたくしの手を掴んでくださいました。
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