蜘蛛の王様

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――私は孤高の王。 この森で一番恐れられている蜘蛛の王である。 この広い世界を見下ろすは、天空の城。 細い糸が張り巡らされた我が城に触れた者は、 命乞いも放棄し、すぐに死を覚悟するだろう。 とはいえ、王の生活は至って地味で怠惰なものだ。 昨晩の悪天候の置き土産。 糸にかかった雨粒を避けながら、 城を補修していた時のことだった。 青虫「ねぇ、あなたの空、とても綺麗ね」 小さな声がしたのは、気のせいだったか。 再び作業に取り掛かろうと視線を落とした先に、 地上から小さな青虫がこちらを見上げていた。 青虫「光の粒を捕まえたの?あんたの空って、とても魅力的で素敵」 蜘蛛「戯言を。私は蜘蛛だ。これは虫を捕らえて食べる罠だ。    おまえが望むような魅力的な物など、ひとつもない」 だが私の言葉は、奴には届いていないのだろう。 こちらの都合などお構いなしに、ぺらぺらと話しかけてくる。 青虫「あんたのお城からは、何が見える?    太陽や月には、手が届く?    あぁ、こんな地べたじゃなく、はやく空を飛びたい。    どんなに素敵かしら、ねぇ、蜘蛛の王様」 蜘蛛「蝶になったら、おまえはただの食料だ。    私に食べられたくなければ、さっさとここから立ち去れ」 しかし、青虫は一向に立ち去る気配はなかった。 城の下に咲いていた菜の花の葉っぱを食べては、 暇さえあれば、私に向かって話しかけてくるのだ。 正直、耳障りでしょうがない。 静寂に押しつぶされていた日常が、 こんな小さな青虫一匹に、あっけなく壊されるとは。 青虫「あたし、蝶になったら、全力で羽ばたいて、    あの空の端まで飛んでいくのが夢なの。    羽に星をまとって飛べたら、どんなに美しいかしら」 蜘蛛「あぁ、どこにでも勝手に飛んでいくがいい。    どうせ、私はこの城から出ることも叶わぬ身」 青虫「王様ってみんなに怖がられてるわりに、意外とつまらないのね。    …じゃあ、そんな王様の夢って、なあに」 蜘蛛「夢なんかあるものか。この城で虫を食べ、いつか死ぬ。    それが蜘蛛の生き方だ。    夢を抱いたところで、本能には逆らえん」 青虫「本能…」 蜘蛛「そうだ。本能によって生かされ、本能によって死ぬ。    夢や理想など語ったところで、私たちの命は短く儚い」 その時だった。 青虫の背後から、蜂が現れたのは。 いわば青虫の天敵…体内に卵を産み付け寄生する蜂だ。 私は…考える余裕もなく、とっさに糸を伸ばし、 青虫と蜂の間に割って入っていた。 均一に輝く城が大きく揺れて、糸がゆがんだ。 青虫「王様!」 青虫は無事だった。 空から思わぬ邪魔が入ったせいか、蜂はあっけなく逃げて行った。 しかし、私たちの間には、まだ問題が残っていた。 蜘蛛「寄るな!寄ると、おまえを食い殺す」 そう、私は蜘蛛。 いくら善行を積み、運命に抗ったところで、 本能に打ち勝つことはできない。 それが青虫にも分かったのだろう。 青虫は言葉を失ったまま、後ずさっていく。 姿が見えなくなったのを確認してから、私は独り静かに城に戻った。 あの青虫は、もう、ここに来ることはないだろう。 天空の城から下界に降りた私は、醜く肥えた異形の殺戮者だ。 これでよかったのだ。本来交わるべきではない者たち。 本能に逆らって生きることはできない。 そうして私の城に、静寂と代わり映えのない日常が戻ってきた。 ――私は孤高の王。 この森で一番恐れられている蜘蛛の王である。 その夜、城に張り巡らされた糸がきしんだ。 久方ぶりの獲物だ。 はやる気持ちを抑えながら、糸を辿ってそっと近づくと、 そこには、月明かりに照らされた白い蝶が掛かっていた。 蜘蛛「なぜ、ここに来たのだ。    次は食い殺すと言っただろう」 蝶々「あんた相変わらずね、王様」 白い蝶の正体は、あの青虫だった。 あぁ、なんて美しく艶やかで…美味しそうな…身体なんだ。 舐め回すようにその姿を見ていると、体中の産毛が沸き立った。 これは、自分自身への嫌悪感か、それとも食欲による興奮か。 蜘蛛「動くな。今、糸を解いてやる」 蝶々「ねぇ、王様。    あたしの身体から目が離せないのでしょう。    そう、隠しててもわかるわ。    ぎらついた視線が、あたしに絡みついてくる。    …星空をまとう、あたしの羽は美しい?」 蜘蛛「黙れ」 蝶々「いつかここに来るのが夢だった。    ねぇ、王様。    私は、自分の意志でここに来たのよ。    本能に打ち勝ち、夢を叶えたの」 蜘蛛「違う、おまえの夢は、どこまでも空を飛ぶことだったはずだ。    こんなところで、醜い蜘蛛に食い殺される命ではない」 本能に抗いながら震える指でせっかく糸を外してやったのに、 蝶は自由になった身体で、私を抱き締めた。 押し付けられた柔らかな腹に視界を奪われる。 甘い鱗粉の香りで、むせかえりそうだ。 蜘蛛「やめてくれ」 この薄皮一枚の下には、溢れんばかりの体液が詰まっているのを、 私は今までの経験から知っている。 あぁ、私の糸でこの美しい蝶をきつく縛ったら、 どんなに気持ちいいだろう。 そうだ、羽を剥いで、城のてっぺんに磔てやろう。 それがおまえの夢だったのだろう…? 蜘蛛「違う、おまえを食べてはいけない」 なぜ?蜘蛛が蝶を食べるのは自然の摂理だ。本能だ。 これもまた、ひとつの運命だ。 自ら罠にかかる馬鹿な蝶は、 このまま逃がしても、どうせ遅かれ早かれ死ぬのだ。 なら、私が食べてやった方が、幸せだろう。 蜘蛛「…もう、独りになりたくない」 知ってしまった。 この城に囚われているのは、自分自身だと。 天空の城とは名ばかり。 六角形に切り取られた空は、蝶の羽の自由と比べたら、 なんと小さな狭い世界なのだ。 蝶よ、無限に広がる空を飛んで、 どうかその眼で見てきたことを私に教えて欲しい。 本能に抗える蜘蛛はいるのか。 蝶を食べない蜘蛛はいるのか。 …蝶を愛せる蜘蛛はいるのか。 気が付くと、そこには主を失った白い羽と、 ちょうど蝶一匹分、膨れた自身の腹が残されていた。 ――私は孤高の王。 この森で一番恐れられている蜘蛛の王である。 ただしそれも過去の話だ。 白い蝶を貪り喰ったあの夜から 私は、虫を捕食することを辞めた。 冬の気配がする冷たい風に煽られた天空の城。 過去の栄光は見る影もなく、無残に荒れ果て、 あとは崩れるのを待つばかり。 飢えた体は、もはや寒さも痛みも感じない。 もう二度と満たされることはない虚しさを抱えたまま、 私は、まだ卑しくも生きながらえていた。 蝶よ、おまえの夢とは何だったのか。 なぜあの夜、私の前に姿を現したのだ。 …おまえさえいなければ。 あぁ、そうだ。 おまえさえいなければ、 私は自身の運命を呪うことなどなかっただろう。 こんな思いに囚われることなく、 本能によって生かされ、本能によって死んでいたはずだった。 蝶よ、私はおまえが憎い。 なぜ、おまえは死してもなお、私の中に生き続けるのか。 ここには、もうおまえの飛ぶ空はないのに。 あの美しい羽が、今も眩しく鮮明に羽ばたいている。 ふいに風が吹き、色づいた葉が揺れ、糸に絡まった。 そこには、不自然に噛み千切られた葉が一枚。 青虫「私たちの命は短く儚い。    なら、あたしは、最後まで本能に抗うわ。    広い空なんて要らない。    六角形に切り取られた、その狭い空で    永遠に飛びつづけるのが夢なの」 それはあの小さな青虫から届いた最後の言葉。 サナギになる前に齧ったのだろう、その葉は 蜘蛛の巣にかかり、くるくると回ったあと、 静かに森に還っていった。 ――私は孤高の王。 かつては、この森で一番恐れられていた蜘蛛の王であった。 だが、地に堕ちた私には、もう空を見上げる力も残っていない。 ほどなくして、雪が舞い散り、私の醜い身体を白く塗りつぶしていった。 それはまるで、あの日の蝶の羽のように柔らかで、美しかった。
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