最後のひと仕事

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最後のひと仕事

 ふと気が付くと。  針と糸が消えていた。 「あら・・・?」  構えたまま、宙に浮いている自分の手を見上げて首をかしげる。 【ヘレナ オワッタヨ】 「そう・・・?」  目の前にあったはずの『無』がない。  そもそもそれにつながる管のような物自体がなくなっていた。  ただ、ほわんと明るくなった空間が漂っているだけだ。 【ワルイモノ ナクナッタ コレデ ダイジョウブ】 「そう・・・なんだ?」  ネロが確信をもって言うから間違いないのだろう。  しかし、何でもありの世界は、ヘレナにはなんと難しいことか。  ぐるりと周囲を見渡すと、ふわふわとした霧はまだ暗い色と明るい色がまじりあい、不快な雰囲気の方がまだ優勢と感じる点から、決して楽観できない複雑な状況と思われた。  視線を転換して足元を見下ろすと、つま先の近くに小さな黒い異物が転がっていることに気が付く。 「これは・・・なにかしら」  屈んで手を伸ばす。 「あ・・・。ヘレナ様。むやみに触っては・・・」  指先に触れた瞬間、僅かな違和感に眉をひそめた。 「ごめんなさい、もう掴んじゃったわ」  指先でつまみ上げる。  金貨ほどの形状で、魚のうろこのように薄い。  黒く見えたが、実際は色々な色が混ざり合って出来た鈍色で、わずかに煙のようなものを発していた。  禍々しい。  そんな言葉が似あうなとヘレナは眺めながらぼんやり思った。 「ちょっと後ろから失礼します」  背後からシエルがヘレナの手首をつかみ、もう一方の手のひらをその異物に向ける。 「とりあえず、包みます」  いったんかけらがヘレナの指から離れて宙に浮き、シエルから放たれた透明な光にあっという間に包まれた。  それは大きな水滴のようなものに変化してしばらくくるくる回ったのち、きーんと硬質な音を立てた後、ヘレナの手のひらの上に落ちる。 「あ、すごい」  手触りとしては、異物を内包した水晶玉のようなものになっていた。 「でも、すごく、嫌な感じですね、これ」  中心部分の禍々しさはそのままだとさすがにわかる。  シエルは、封印してくれたのだろう。 「ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみません」  謝ると、シエルは眉を下げて困り顔をする。 「もう・・・。貴方という人は」  また軽く指先を振り、ヘレナの手に金色の光を降らせた。  キラキラとした光の粒が優しくヘレナの指に触れて消えていく。  なんとなく、心地よい。 「これは浄化魔法です。貴方があんなものに汚染されるなんて我慢なりません」  珍しく、少し強い感情のこもった声。  それほど強力なものだったのか。  今更ながら、自分の迂闊さに後悔する。 「ごめんなさい・・・」  肩を落とすと、ふっとシエルは軽く息をついた。 「すみません、私も少し感情的になりました」  そして、くだんの玉とヘレナの手をゆっくりと両手で包み込み、告げる。 「この空間で可能かはわかりませんが・・・。とりあえずイチイの指輪に収納してしまいましょう。現世へ持ち帰ることができれば、分析できます」 「あ・・・そうか」  先ほどもイチイの指輪の力を使うことができた。  ならば。 「やってみましょう。私も手伝います」 「はい」  長い指先に優しく促され、ヘレナは頷く。  この指輪を授けてもらった時に一度出した術符を仕舞う経験はした。  しかし、その後術符の世話にならねばならない事態に陥ったことがなかったため、もうその効能を忘れかけていた。  ヘレナにとってこの中指の輪は温かみのある素敵な装飾具であり、もはや体の一部だ。 「では、同時に唱えます」  シエルの声に誘われ口を開く。  己か何をしたいのか、念じながら。  《収納》  すうっと淡い光が水晶玉を包み込み、指輪に吸い込まれていった。  信じられない光景に目を瞬く。 「・・・これで、大丈夫ですか」  あたりは何事もなかったかのように静寂に包まれ、禍々しい空気も消えた。 「はい。上出来です」  シエルの太鼓判に、ヘレナは大きく息を吐き出し肩の力を抜く。  不思議現象の連続で、知らず知らずのうちに身体が緊張してしまう。 「でも、まだやることがあるのね」  足元の黒猫に尋ねると、彼の大きな耳がぴくと動いた。 【ウン】  ネロがくいっと顎で遠くを指す。  その先には、あの、黒ずんだ塊が今もゆっくりと不規則な動きを見せている。 【ツギハ アレ】  遠目に見ていても、明らかにおかしい。  伸縮する時の形と拍が一定ではない。  苦しげに、辛うじて動く。  もしそれがバーナードの心臓だというのならば、かなり苦しかっただろう。 「これが、元凶なのですね」  近くまでたどり着いてから、シエルが尋ねる。 【ソウ   モトモト コレガ ネライ ダッタ】 「狙いとは?」 【クスリ   バーナードヲ コワス クスリ】 「心臓の動きを止めるための薬・・・」  顎に手をやり、シエルは考え込む。 「当初の狙いでは原因不明の突然死。しかし、ローズマリーの薬草酒のせいでなかなか効かなかった・・・なるほど」  ふうと息をつき、ネロを見下ろした。 「それで、私はこれにどのような力を加えればよいのですか」  毒素で真っ黒に染められたそれがなんとか動いているのは、バーナードの意志の強さもあるのかもしれない。  彼は、生きようとしている。 【ワルイトコロ トッテ ツナゲタ カラ ミチ デキタ   アトハ ポンプ ウゴカス  ヒカリ チユ キレイ キレイ】  今回も、ざっくりとした指導だ。 【ソレデ コンヤノ シゴト オシマイ】  これさえ上手く対処出来れば。  バーナード・コールの体調は好転する。 「あの・・・。でしたら、私も一緒に施術してみるのはどうでしょう」  ヘレナは手を挙げた。 「シエル様が内部を中心に光魔法で治癒して、私が外側を土と水の糸で包み込み保護をかけるのはいかがでしょうか」 【ア ソレ イイ ステキ!】  ネロは瞳孔を真ん丸にさせて興奮する。 【ヘレナ カシコイ ヘレナ ヤッテ ヤッテ】  ぱたぱたとしっぽを振って同意する猫に、シエルが待ったをかける。 「ちょっと待ってください。さきほどヘレナ様は魔術を行ったばかりです。魔力量を事前に確認しましょう」  シエルは顔色を変え、両手をヘレナに差し出した。 「そういえばそうですね・・・。でも、不思議なことに枯渇しているような感覚はないのですが」  結構複雑な術を行ったはずなのに、疲れが全くない。  これが夢の中だからなのかと首をかしげながらヘレナも両手を差し出した。  互いに向き合い手を重ね合う。 「はかります」  じわりとシエルに触れられたところから魔力が入ってくるのを感じる。 「・・・これは・・・どういうことなのか・・・」  シエルは眉間へ僅かなしわを寄せた。 【ソウイウ コトダカラ ダイジョウブ】  ネロの得意げな様子と、シエルの厳しい表情の対比にヘレナは首をかしげる 「どうしました?」 「・・・不思議なことに、満杯でした。しかし、私としては高度な魔法をヘレナ様の魔力量でこれ以上行うのは危険だと思います」 【ダイジョウブダッテ  シエル シンパイショウ】  心配性とか、いったいいつの間にそんな言葉を習得したのか、ネロ。  まだ一歳に満たない黒猫の言語能力にヘレナはこんな時にもかかわらず感心してしまった。 【ソレニ モウスグ ヨガアケル ジカンナイ  イソイデ】  超絶現実的な指摘と催促に、シエルはヘレナの両手を握りしめたまま深々とため息をつき、打開策を提案する。 「では、こうしましょう。片手をつないだまま互いに術を繰り出します。ヘレナ様は思うままになさってください。私は、この心臓に処置をしながら、貴方に魔力を注入します」 【ナルホド! イイゾ シエル アタマイイ】  大興奮して尻尾をぐるんぐるんと振り回すネロ。  とうとう彼は、ヘレナとシエルの周りを飛び跳ね始めた。  いたくお気に召したらしい。 「あの・・・。宜しいのですか?私の介添えをしながらですと、シエル様に大変なご負担がかかりますよね」 「十分可能です。今思えば、先ほどもそうすべきでした。さあ、ヘレナ様。最後の一仕事、前代未聞尽くしでしたが、早々にやっつけて現世へ戻りましょう」  シエルが青玉色の目を細めて不敵に笑う。  そんな彼の表情を、ヘレナは頼もしく思った。 「はい。朝のめざめが楽しみです」  指輪をはめている左手を彼にゆだねる。 「では、まいりましょう」  魔導士としてのシエルの声に、ヘレナは顔を上げ、いびつな黒い高まりに目を向ける。 「あなたの未来が、明るいものへと変わりますように・・・」  バーナードのこれからが。  そして、甥のウィリアムも含め。  善き道が開けるようにと。  ヘレナは心から祈った。  光が、満ちる。  濃紺の帳と、薄い水色の大気と、白い霧。  金色の光と茜色の温かさ。  紫色のはざまに包まれた時、ヘレナは思う。  ああ、夜明けが来た。  夜明けの空。  あの、希望に満ちた不思議な光景。
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