きしさま、おはなをどうぞ。

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きしさま、おはなをどうぞ。

「きしさま、おはなをどうぞ」  戦場に近い、辺境の村で出会った少女。  黒く艶のある髪が日の光に照らされ、きらきらと輝く。    幼い頬はバラ色に染まり、小さな白い歯を見せて笑う。  花を受け取り小さな頭を撫でると、もみじのような両手を叩き小さな足でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。  和平交渉がほぼ決まりかけていたころで、軍隊も戦に関係のない地元民たちも安堵し、穏やかな空気が流れていた。  田畑は守られ、果樹園も収穫目前で、豊作への喜びにあふれ、人々は笑いあう。  ようやくこれで平穏な毎日が始まる。  そう思っていたのに。  目を閉じて、開いた瞬間、周囲は地獄へ変わった。  家々は破壊され、農作物も木々も焼き尽くされ、逃げられなかった人々の死体があちこちに横たわる。 「なぜだ。なぜこんなことに……」  まだ火がそこかしこでくすぶっている焼野原を前に呆然と立ちすくんだ。  簡単な手続きと建前で締結されるはずだった条約。  その前夜に一部の部隊が夜襲をかけ、全ての努力が無に帰した。  突然のことで、争いにかかわりのない民たちはほとんど避難することが出来ず、戦闘に巻き込まれて亡くなった。  いつもいつも、こうなる。  あと一歩でという時に、最悪の事態に陥る。  自分が。  あの男を、制御できなかったばかりに。  そのせいで、多くの人が亡くなった。  たくさんの、部下たち。  たくさんの、相手国の戦士たち。  たくさんの、平民たち。  そして……。  崩れかけた小屋の前に転がっていた一つの遺体。  小さな小さな身体。  手と足と首がばらばらに不自然な形に曲がっている。  地面に散る黒い髪は土と灰にまみれ、抱き上げて見えたその顔の恐怖に見開かれた瞳は青色がかった灰色で……。 「きしさま、どうして?」  ヘレナ・リー・ブライトンの顔で、リチャードを責める。 「どうして、わたしは、ころされちゃったの?」  あどけない声に、喉を締め付けられた。 「うわああああ――――――――っ!!」  実際に叫んだかはわからない。  気が付いたら汗だくで毛布を握りしめ、起き上がっていた。 「……また、か…………」  うつむき、額から流れ落ちる汗を手の甲で拭う。  肩で息をしながら、唾を飲み込み、からからに乾いた喉を落ち着かせようとした。 「……喉が渇いているんなら、水を飲むか?」  思いもしない声に、顔を上げる。 「ああでも、この水は駄目だな。ホランド。廊下にいる侍従にこの建物のではなくて、本館の中庭にある井戸から直接飲み水を汲んでくるように言って。大急ぎで」 「はい」  ホランドは一礼して部屋を出ていった。 「ほら。とりあえずその汗をこれで拭えよ、リチャード」  いつの間にかベッドの傍らに椅子が置かれ、そこに優雅に足を汲んで男が座っていた。  まるで、この部屋の主であるかのようにくつろいで。 「……なぜ、貴方がここに。モルダー男爵」  素直に差し出されたタオルを受け取ると、緑がかった深い青の瞳を細めて懐っこく笑う。 「ナイジェルで良いよ。そもそも俺、男爵の分際で小侯爵様を呼び捨てにしているし」 「……では失礼して、ナイジェル様」 「ん。まあ、用があってここに来たわけだけど、ちょうどいい感じにうなされていたから観察してた」 「……は?」 「君、まだあれの夢を見ているんだな」  かわいそうに。  金細工のような睫毛の奥の瞳が、心から憐れんでいるように思えて、胸の奥に重いものが詰まった。  弱すぎると、言いたいのか。  優しくされるとその言葉の裏を探ってしまう。  いつまでも、過去の失敗を引きずるんじゃない。  もう終わったんだ。  どれほど悔やんだところで、失った命は戻ってこない。  誰もがそう言った。  あなたは悪くない。  あなたのせいじゃない。  母は泣きながらそう言って抱きしめてきた。  しかし、多くの命にどう償えばいいのかわからない。  あるはずの未来を奪った。  選択を誤り続けたばかりに。 「ほら。とりあえずこれを飲めよ」  目の前にいきなり水の入ったグラスを突き付けられて驚く。 「真面目な子が一応少しはいるんだな。結構な距離を走って汲んできてくれたらしいぞ。……とはいえ、指示を出してから二十分経っているけどな」  両手でしっかりとそれを握らされ、手のひらに冷たい感覚がじわりとしみこんできた。  それと同時に、ふと、思いだす。  『水を飲むか』と尋ねられ、それから二十分も? 「……え……っ?」  時間の感覚が合わない。  視線を巡らすと、ぼんやりと暗めの照明の室内にはそば近くにモルダー、そしてホランドがいるだけだ。  そういえば、コンスタンスはどこに行った。  じわりと不安が湧き上がってくる。  すると、モルダーが顔を寄せ、瞳をしっかりと覗き込んできた。 「いいから、飲め。話はそれからだ」  戸惑ったが、強い口調で促されリチャードはゆるゆるとグラスを持ち上げた。  唇にグラスのふちを当て、少し水を喉に流し込む。  一口含んで、甘露だと感じた。  そして、とても喉が渇いている事も思いだす。  グラスを傾け、一気に喉を鳴らしながら飲みきった。 「…………は……」  水の冷たさと清らかな味わいが身体全体にいきわたるようだ。  思わず息をついた。 「よし。ついでにちょっとこれも飲んでくれ。怪しいものではない。医療行為のためのポーションみたいなものだ」  香水の瓶のようなものの栓を抜き、手渡される。  透明なガラスの中で波打つ液体は、暗い照明の中で緑色の光をわずかに放つように見えた。  こんなものは見たこともないし、医療行為のためのポーションなんて聞いたことがない。  しかし、悪夢のせいか倦怠感がひどく、どうにでもなれという捨て鉢な気持ちも湧いてきて、上を向き素直に口の中に注ぎこんだ。 「……ぐっ! かはっ! けほっ、けほっ…」  極端な甘さと強い香りと経験したことのない味が一気にリチャードの口の中を占拠する。  吐き出したいのを必死でこらえながら飲み下した。  しかし、喉が本能で拒絶するのか一部が気管に入ってしまう。  鼻の奥がじんと痛んだ。 「あ、ごめん。超絶不味いらしいことを忘れてた。ほら、もう一度水を飲んで。たぶんめちゃくちゃ美味しく感じるよ」  言われるままに水を二杯飲んだところで何とか落ちついた。 「……貴方は、いったい、どういう、つもりで……こんな……」  肩で息をしながら恨みがましい目を向けると、モルダーは椅子に腰かけて、けろりとした様子で肩をすくめる。 「うん。完全なる善意だよ。俺、良いこといっぱいしたの。でさ。ねえ今、具合はどうかな?」  聞かれてふと気づく。 「そういや、なんだか……」  ふと、天井を見上げた。 「照明を明るくしたのですか?さっきまでこの部屋の中は暗かったのに」 「いや。お前が起きる前からこの部屋の明るさは変わらない。変えていないんだよ、リチャード」  ひじ掛けに頬杖をつき、長い足を組んでモルダーは慈愛に満ちた表情で微笑む。 「さあ、話をしようか、リチャード。夜は短い」  いつの間に開けたのか、窓から夜の木々と土の匂いがそろりそろり部屋の中へ入り、リチャードの頬を撫でた。
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