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モカちゃんねるの登録者数は、俺が関わるようになってから百ほども増えた。およそ二倍になったということだ。モカは手放しで喜んでいるが、しかし所詮は二百人あまり。何十万、何百万というようなトップビューチューバーには遠く及ばないし、俺たちのようなド底辺が目指せるはずもない。
しかし、着実に動画の視聴時間も伸びていて——すなわち多く再生され、かつ、途中で見るのをやめているのが減っているということだ——、高評価やコメントも増えている。
例のフタコブオオキモオジサンからも、
「カメラマンさんが増えたんだね!?モカちゃんの姿が見れて、嬉しい!?俺も、モカちゃんと一緒にロケしたいな!?ナンチャッテ」
というコメントをいみじくも賜った。
バイトも好調だ。土日の昼にナナコさんが店に顔を出すのが楽しみで、マスターの地獄の新メニューも気にならない。ナナコさんの姿をリピートし、接客にも慣れてきている。
はじめての給料ももらった。大家さんに滞納していた家賃を払ったらほとんど残らなかったけれど、それでも大家さんもホッとした顔をしていて、できるだけ親御さんに連絡したりするのは避け、俺が独力で再起するのを待ってくれていたのだというようなことを言った。言葉の端々になんだか恩着せがましいものがあったが、俺の努力の結晶だと思うと嬉しかった。
俺の当座の小さな目標は、動画編集に耐えうるスペックの新しいパソコンを買うこと。あと、通勤用の自転車も。余裕があれば、モカに飯をおごってやるのも悪くない。
モカは俺に申し訳ない申し訳ないと言いながら、編集自体はいたく気に入っているようで、次もぜひ頼むと言ってきている。
初夏どころか梅雨の気候になっても仕事は相変わらず忙しいらしく、ときに数日間連絡が途絶えたりすることもあった。
ふと心配になった俺が決まって送るのは、
「やっほー、息してる?」
と、かつてモカが俺に言った台詞だった。そうすると、モカは俺を放置していることに気付くらしく、
「ごめん、忙しくて。息してるどころか、過呼吸」
と返信してきたりする。
「じゃあ紙袋でも被って休んでな」
と俺が返すと、
「なにそれ。笑う」
と笑顔のスタンプが送られてくる。
京都の梅雨は、毎年七月が本番だ。バイト先で今年の祇園祭がどうだと新聞を広げながら独り言を高らかに叫ぶ奥さんに頷きを送ってやっているとき、エプロンの中の俺のスマホが寒い日にオシッコをしたときみたいに身震いをした。
こんな平日の昼間に何だろうと思って、店内にお客さんもいなかったので見てみると、モカだった。
「今日、会える?」
俺の親指が、スケート選手のように画面上を滑る。
「バイト。夜七時くらいにならないと終わらない」
「この前のバス停で。いい?」
「いいよ。どした?」
人間というのは社会を組織する生き物で、それがために他者の様子の変化というものにたいへん敏感にできているというのを聞いたことがある。この無機質な文字のやり取りで、モカの様子が変だということを感じ取った。
会えるか、というのはたとえばモカが今日有給か何かで暇を持て余し、撮影に付き合えという意味にも取れる。しかし、夜に撮影はしない。それでもいいと言うのは、俺自身に用事があるということだ。これまで、そんな前例はない。
人間というのは、前例のない未知に対して不安と恐怖を覚えるようになっているというのも聞いたことがある。その意味でも、俺はやはり生物として課せられた遺伝子のいたずらに忠実であるらしい。
俺の家の最寄りのバス停なら、バイトが終わってからそこに至るまでのタイムラグがある。だから、喫茶アトムの最寄りの地下鉄東山駅で待ち合わせることにした。
なんとなく落ち着かずにバイトの時間を過ごした。
六時になって閉店作業をし、それが終われば上がりだ。各テーブルを綺麗に掃除している俺に、マスターが背中越しに語りかけてきた。
「今日はもうええで。上がりや」
「え、でもまだ——」
「こんなときは、構へん。行き」
マスターは、いつもどおりの野太い声をひとつひとつ丁寧に拭いているグラスに映している。
「はあ」
「さっきの連絡。大事な連絡なんやろ。気になってしゃあない、いう感じやで。ええから、行き」
マスターもまた、俺の変化について敏感であるらしい。基本的に無口でコワモテだが、案外優しい人なのかもしれないと今さら思う。
すみません、じゃあお先に、とエプロンから解き放たれた俺は、店の外の細道に出た。
外は、雨。家を出たときは降っていなかったから、傘なんて持ってない。早く上がらせてもらったうえ、店で傘を借りるというのが気が引けるので、どうせ東山駅のこと、走って行けばいいかと思い、そのまま雨を跳ね返すアスファルトを勢いよく踏んだ。
そうして三条通りに出た瞬間に雨足はさらに強くなり、俺は自分の決断を後悔した。
目の前に観光客向けの洒落た土産物屋があったから、傘くらい売っているだろうと思って駆け込む。
だいぶ割高に感じる傘を手にして持ち込んだレジで財布をまさぐっている俺の副視野に、和風の配色の何物かが映り込んだ。
——癒しの香り。白檀とラベンダー。
「すみません、これも」
レジ台に手書きのポップと共に陳列されていたお香。それも何かに弾かれるようにして差し出していた。
マスターのおかげで、六時半には東山駅に着いた。東大路三条の交差点にあるハンバーガー屋に入り、コーラだけ注文して時間を潰すことにした。
モカにその旨をメッセージで知らせると、すぐに既読がついた。
モカは、どうしたのだろう。何か、悩み事だろうか。だとしたら、なぜ俺を呼び出したのか。モカの周りにはもっと人の相談に乗るのに適した人間が多くいるはずではないか。
ひょっとして、忙しいからもう動画撮影をやめたいと言い出すのだろうか。編集者を買って出ている俺に謝るため、呼び出したのだろうか。
そうであれば、俺がズボンのポケットにねじ込んでいる小さなお香——会計のとき目玉が飛び出そうになった——は、あの銀閣寺荘の一室に充満しているカビ臭さを誤魔化すために使われることになる。
「やっほー。息してる?」
思案を窓の外を叩く雨に溶かしているところ、耳元でいきなり声。ヒャッと美しいソプラノと共に飛び上がって首を回すと、すぐ目の前でモカが俺を覗き込んでいた。
「どしたん。めっちゃクールに外眺めてたやん」
モカも約束の時間より早く到着し、俺を驚かそうと忍び寄ってきたものらしい。
「何でもない。雨を裂くヘッドライトに自分の姿を重ねてただけさ」
いつもの調子で厨二ジョークを放つ。モカの前では、お調子者らしい。そうするとモカはくくと喉を鳴らし、俺の向かいに座った。
「ごめんなあ、バイトやったのに」
「いや、別にいいよ。何かあったのかなと思って」
「うん——」
モカは曖昧に笑い、手にした容器に刺さったストローからぞろぞろと音を立てた。その重さからして、シェイクだろう。
「なんとなく」
「なんとなく、で雨の中ここまで来るかよ。お前んち、北山だろ」
最近まで知らなかったが、モカの家は北山にあって、父親の知り合いの所有するマンションに住まわせてもらっているらしい。
「うん、そうやね——」
と、モカは一層はっきりしない。
「なんか話があるんじゃないの?それとも、高級ディナーでも奢ってくれるわけ?」
「——家、出よかなと思って」
「マンション?」
俺の話が自宅のことに向いたのが糸口になって、モカは明け方見た夢のように曖昧になっていた口を開いた。
「なんで。家賃も親が払ってくれてるんだろ?ラッキーじゃん」
「そうやねんけど、なんか、息苦しくて」
「なんか、いつもと真逆だな」
いつもは俺がムニャムニャ煮え切らず、モカがサッパリとしている。そのことを言った。
「いや、ほら、わたし、仕事もお父さんに紹介してもらってるやん?」
「そうだったな。お前の父さん、やり手だな」
確か、三重、名古屋、滋賀あたりで会社をいくつか経営していたはずだ。モカの今の就職先も、その繋がりで得たものなのだろう。
「せっかくいい大学出て就職決めたのに駄目にして、親の助けで仕事先見つけてもらって、住むとこも面倒見てもらって、正直、息苦しいねん」
「そうなの?まあ、お前の父さんからしたら、娘のためなら、ってことじゃないの?」
モカは一人娘だから、可愛くて仕様がないのだろう。なんとなく、アトムのマスターとナナコさんのことを思い浮かべた。
「ううん、違うねん。いや、違わへんねんけど」
モカは、今まで特に語ってこなかった親子関係について語り出した。
「ゆくゆく、うちの会社もわたしが継げ、言われてるねん。お前はうちの跡取りなんやから、それに相応しい人間になりなさいて小さい頃から言われてた。そやし、たとえば今の会社辞めたい言うても、お父さんの顔に泥塗る気か、てすぐなるねん」
ピアノやらお習字やらお琴やらバイオリンやら英会話やら、モカは小さい頃から随分な英才教育を施されていた。それは何となく知っていたが、お嬢様育ちなんだな、くらいにしか思っていなかった。
だが、モカは、それを窮屈に感じていると言う。
「なあ。ぶっちゃけて話してくれよ。何があったのさ」
そこだ。話題の周辺部ばかりなぞっていて、全くモカの言いたいこと、いや、感じていることが見えてこない。
「——会社、辞めたいねん」
「そうなの?上手くいってると思ってた」
「前も言うたけどさ、仕事自体は楽しいねんけど、色々面倒くさいことが多いねん」
「んで辞めちゃうわけ?なんか、らしくない気がするけど」
本当の理由は?それを、言葉ではない部分で訊ねた。
ぞろぞろ。シェイクをすする音が、軽くなっている。溶けてしまっているらしい。
「——セクハラがひどくて」
「嘘でしょ。まじかよ」
「最初は気にしてへんかってんけど、だんだん、エスカレートしてるねん。やめてください、て言うたら、お前はうちの社員である前に女なんやし、しゃあないとか言われてしまったもんで」
もんで、というのはモカの出身の訛りに多いらしい。もともと三重というのは訛りは強くなく、ふつうの関西弁か名古屋に近い方なら標準語っぽい喋り方が多いらしいが、京都好きのモカはそれすらも出ないよう注意し、大学時代からこの街に馴染むよう自分を作り変えてきたと以前言っていたのを思い出した。
「酒が空いたグラスあればすぐに注ぎなさいオヤジなわけね」
緊迫したモカの眉を柔らかくしようと流行りの歌のフレーズを引くと、期待通りではなくともそれに準ずる効果が得られた。
「そっか。色々大変なんだな」
俺はとっくに力尽きているはずのコーラをすすり、その匂いの泡だけを口の中で遊ばせた。
「会社は?行ってないわけ?」
「うん、ちょっと休ましてもらってる」
「辞めようにも、お父さんが許してくれない。会社に戻ったところで、皆がつまみやすいように串外しなさいオヤジは偉い人に守られて玉座にいるまんま。で、押すも引くも叶わなくなったモカ氏は、なぜか俺に連絡してきた、と」
そんなとこかも、とモカは笑った。それが、びっくりするくらい力なくて、俺は焦った。
「もういっそトンズラこいて、二人でビューチューバーしようぜ。俺がガンガン編集してやるよ」
「あはは、アリかも」
「大アリクイのモハメドアリだぜ。モカならいける」
「考えとくわ」
「まあ、それは冗談にしてもさ。大丈夫なわけ?」
モカはまた干しっぱなしのタオルみたいな笑顔で、応えた。
「うん。ありがとう」
結局、そのまま仕事の愚痴だ、俺のバイト先のことだ、というような話になり、ひととおりそれが尽きると、モカは席を立った。
「ほんまありがとう。めっちゃ喋ってしもた。今度、ほんまにご飯おごるね」
「おお、期待しとくわ。最高ランクのステーキコース三百人前な」
「やば、破産やん」
自動ドアの向こうは、雨。それが、わっと俺たちを迎えた。そこで楽しそうに喉を鳴らす様子はいつも通りに見えて、少し安心した。
「あ、そうだ」
目の前の地下鉄の階段の前で、俺はポケットに手を差し入れる。
「これ、やるよ」
「——いいの?」
「お香とか好きだって言ってたじゃん。癒しのラベンダーと白檀だってよ」
「嬉しい。もらっていいの?」
「部屋が仏臭くなるかもしれないけど」
モカは、はっきり声を立てて笑った。
俺の任務は、無事終了したらしい。
ここで、俺にとって一番気になっていたことを。
「なんで俺だったわけ?ほかに友達とかいっぱいいそうじゃん」
「いちばん、暇そうやったから?」
「お前なあ、ナメんなよ」
「うそうそ。なんでやろな——笑いたかったからかな」
ばいばい、と手を振り、モカは地下への階段を鳴らしていった。
ほっとして帰宅した俺は自らのファインプレーに満足して適当に晩飯を済ませて早く寝たが、それは俺の思い違いだった。
そのあと一週間以上、モカと一切の連絡が取れなくなった。
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