第一章 【悲報】ド底辺どころかむしろ無

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 俺は、銀閣寺荘の一室で、人類が当然に知っているべき呼吸というもののやり方を思い出している。  モカは、今働いている会社で新しい部署を立ち上げることになって、そのメンバーに選ばれたから今月から忙しいだの、できるうちに趣味の動画投稿の撮影をしておこうと思って銀閣寺に行ってきただの、モカはひととおり自分のことを話し、そのあと、当たり前のように、 「ハルタ君は?」  とエクスカリバーみたいな切れ味の刃を向けてきた。  まあ、いろいろ。とオーナーもいたから、適当な嘘をついてごまかすこともできず、俺は宇治の本場でもそこまで濁らねえぞというほどにお茶を濁すしかなかった。  ようやく息を吸って吐くことが無意識に繰り返せるようになったのを知覚してから、 「モカちゃんねるっていう名前でビューチューブに投稿してるから、よかったら見てみて」  というモカの言葉を思い出し、辛うじて現世と俺とを繋ぎ止めているスマホで検索した。家賃を滞納しているくせにスマホ代はギリギリ払っているというのは大家さんにはもちろん言えない。  ——モカちゃんねる。登録者数、百人ちょっと。  休日を利用し、ほんとうに趣味でやっているのだろう、そこには二十本ほどの動画が上がっているだけで、登録者数も再生数も多くない。  内容は、街を散策したりカフェの料理を紹介したりというようなものばかり。どうやら顔出しはしていないらしいが、若い女の声だからとキモいオジサンらしきコメントが散見される。 「モカちゃんも、仁和寺好きなんだね!?桜よりモカちゃんの方が、きっと綺麗かも!?今度、一緒に行けたらな、ナンチャッテ」  そんな気色悪いコメントにも、モカはいちいち返信しているらしい。  動画はべつに面白くはなく、コメント欄のウザさにだんだんうんざりしてきたが、 「キャバ嬢じゃあるめーし」  と一人で呟いてスマホを放り出す俺よりは、仕事も趣味も充実しているモカの方が何倍もマトモだろうと思う。  いや、どのみちゼロの俺だから、倍率とかじゃない。俺とは違う世界に、俺があるべきだった世界に、モカはいる。その事実を確認しただけで、この家賃三万の古アパートの一室で息をすることすら許されなくなっている俺は死にたくなった。  一○一号室の一人暮らしのおじさんみたいに、生活保護を申請しなきゃいけないかもしれない。親とかにも確認の連絡が行ったりするらしいから、それは絶対に避けたい。  放り出したスマホを再び手に取り、求人サイトのチェック。未経験でも可、というような広告に目を惹かれるが、貼り付いたような従業員たちの笑顔の写真が、逆にブラックな感じがする。  妥協はしたくない。京都にまで出てきて一流大学に入って、中途半端な就職をしたんじゃ、何にもならない。  社畜にもならない。一個の人間として正しく俺を認め、労働に見合った対価をくれる会社にだけ身を預けたい。  今は、我慢。そう思い、ひとまず空腹を満たすことにした。  そこで、俺はオーナーが分け与えてくれた食料を店に置いてきてしまったことに気付いた。どんだけテンパってたんだよ、と自嘲しながら、ジャージのまま再びサンダルに足を預ける。  力技で開いてしまいそうな玄関扉。空き巣に入られたところで盗まれて困るものなんてないから、面倒臭くて鍵もかけない。  そのまま隣接した大家さん宅の居間の窓に気配を映さぬよう、もし忍者の就職先があれば即採用だろうなというような完璧な足取りで坂道に出る。  何だかんだで二時間くらい経っている。さすがに、モカはもう喫茶店を出ているだろう。このごろめっきり長くなった西陽に睨まれながら、それからも身を隠すようにして喫茶店に戻る。  食材の入ったビニール袋を受け取り、さっきの子、いい子だったね、ビューチューブでうちのナポリタンを紹介してくれるんだってさ、なんてホクホク顔のオーナーに曖昧に笑い返し、店を出る。 「あれ、奇遇やん」  と、俺の全毛穴を縮まらせる声が後ろから。全く気付かなかったから、やっぱり忍者の就職先は諦めなければならないらしい。 「まだいたのかよ」 「この辺、雰囲気あるしブラブラしててん。もう帰ろかなて思ったとこ。なあ、一番近いバス停てどこ?」  異世界の住人モカは一日に二度同じ知り人と行き合うのを単純に面白がっているらしく、さっき会ったばかりなのに奇遇やん、などと冗談を言う余裕を見せてきた。  とりあえず、さっさと解放されなければならない。俺は近いバス停を教えてやり、あの生臭い巣に足を向けようとした。 「せっかくやし、そこまで案内してよ。土曜やし暇そうやん。あ、ついでにこの辺で他にオススメのスポットもあったら教えて」  ペットショップの仔犬でももうちょっと距離取るぞ、というくらいモカは人懐っこい。俺がこのところ会話をする女性といえばあの地獄からの使者、もとい、大家さんだけだから、戸惑った。 「というわけで、出発ぅ」  今さっき見た動画のオープニングの決め台詞。口に染み込んでいるのだろうか。カメラは回っていないけれど、その声は動画と同じように弾んでいた。  無言の圧力。それに従ったと言えば聞こえがいいが、人との関わりを求めていたと言うのが正直なところだろう。地理に詳しくないからバス停について訊いてきたくせに先に立って歩くモカに、続いた。 「動画、好きなんだな」  俺の背に張り付いている見えない何かに押しつぶされないように、話題を向けてやった。 「うん。あちこち散策するのが好きで。どうせやったら、動画にして投稿しよかなて思てん」 「編集とかコメントのやり取りとか、面倒くさくないの」 「あ、さっそく見てくれたん?」  しまった、と思った。スポット名やオススメのポイントなどに丁寧にテロップが入れられていて、視聴者からのコメントにも応じているのを俺が知っているということから導かれた当然の事実である。 「さっき、なんとなく。どんな風なのかな、って」 「見てって言うといてなんやけど、なんか恥ずかしいわ」 「コメントおじさん、笑えた」 「ああー、あの人ね。動画上げたらすぐ見てくれるし有難いねんけどね」 「あんな大キモキャバクラおじさんでも大事な視聴者、か」  モカは、なにそれ、めっちゃ面白い、と手を叩いて爆笑した。  いつぶりだろう。俺が世界に何かを働きかけ、それで人が笑うのは。なぜかそれが斬新なような気がして、太ももが痒いような感じを覚えた。 「ファンがいるのは凄いと思うよ。それが、あのオオキモノミコトでも」 「待って、ヤバいねんけど。神様みたいになってるやん」 「視聴者は神様、だろ?」  モカの笑いは止まらない。俺も自然と笑い、そうすると得意になって次々と面白ワードが飛び出した。今の俺なら面白ワードでアマゾン川を遡らせることもできるだろう。 「いやあ、めっちゃ笑ったわ」  バス停に着くと、モカはため息と共に言った。それがなんだということは俺でも分かる。もうすでに名残惜しいような気がしてしまっているが、ここは潔く、さも何でもなかったかのように自宅に戻らなければならない。 「俺も久しぶりに笑った。おかげで、腹筋が七つになったわ」 「待って、一個余ってるん何なん」 「これだよ、これ」  と俺のたわわな腹肉を叩くと、またモカは大笑いした。 「ハルタ君、やっぱりめっちゃ面白いなあ。大学のときもそやったけど、研ぎ澄まされてるなあ」  バスの接近表示が鳴き声を上げている。 「ハルタ君もビューチューブしたらええのに。流行るで」  あ、バス来るわ。モカは遠くにそれを認めて呟き、俺の方を向き直り、ほんまにありがとう、とさっきまでとは違う調子で笑った。  モカを連れ去ったバスの背中を何となく見送り、久しぶりの楽しい時間の余韻に浸る。連絡先を聞くのを忘れているあたり、俺はやはり相当にいっぱいいっぱいだったんだろう。  ——ハルタ君も、ビューチューブしたらええのに。  俺には、人様に紹介できることなんて、ない。  あるのは、何もないド底辺の毎日だけ。  いや、待てよ、と俺の中の天才軍師が羽扇をひらひらさせる。  財布の中には、生活費として使える分であと三万。携帯代は除く。家賃については——まあ、どうにかなる。  とにかく、一カ月一万円で生活し、その様子を投稿するのはどうだろうか。そうすれば、三カ月は続けられる。大学時代から使っているパソコンに無料の編集ソフトを入れれば、俺にも動画投稿はできるはずだ。  もちろんそれでどうにかなるはずもないし、とりあえず就職先をさっさと見つけることが第一だ。最悪、バイトで繋ぐ。だけど、ただ何もないよりは、そうやって何かをしていれば、少なくとも毎日目覚めるのがそもそも面倒とは感じなくなるのでは、と期待した。  小さな、小さな張り合いができたような気がした。  いや、ほんとうのところは、モカが羨ましくて、悔しいだけなのかもしれない。  バスはとっくに見えなくなって、そのあと、いくつものテールランプが俺を追い越していっている。  陽が暮れたんだな、と今さら思った。
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